かつてラメッシ・バルセカールというお方がいた。
・・・ ラメッシ・バルセカール(Ramesh S.Balsekar 1917—2009)は、1917年にインドの中流家庭に生まれた。イギリス留学後、インド有数の銀行に勤め、最後は頭取になって手腕を発揮した。銀行を定年退職後、長年の関心だった「私とは何か?」を本格的に探求し始め、ほどなく同じ町に住むニサルガダッタ・マハラジに出会い、覚醒。以後、死ぬまで数十年間、ニサルガダッタ・マハラジの教えの継承者として、ムンバイの自宅や欧米で、真実の探求者にサットサン(「真実と交わる集まり」くらいの意味のアドバイタ哲学の用語)を行う。私生活では、ゴルフ等、スポーツの愛好家であり、よき父親、夫、祖父だった。(WEB『シンプル堂の日々』より) ・・・
銀行頭取という正真正銘のビジネスマン。
『タオのリーダー学』という書籍は、ビジネスの捉え方をタオの視点から捉えなおしているのが面白く愛読していたが、この方の現役時代はまさにタオ的なマネジメントを実践しておられたようです(見てきたわけでないから憶測ですが)。
「自己覚醒、すなわち悟りとは、自分であれ、他の誰であれ、どんな行為にも個人的行者はいないということを最も深く理解することに他なりません。 あなたはまた、どんな思考を考える人でもありませんし、どんな経験の経験者でもありません。思考も経験もただ起こるのです。」 (「人生を心から楽しむ 罪悪感からの解放」ラメッシ・S・バルセカール)
この本は絶版で、アマゾンで古本があるけど、高価で手が出ません(笑) このエッセンスを引用してみます。
「
生まれたものは、柔らかく、しなやかです。 死んでいるものは硬直して、固いのです。
それゆえ、柔らかく、しなやかなものは、生の印であり、 硬直して、固いものは、死の印です。
硬直し、固いものは壊れ、しなやかなものは生き残ります。 柔和な人たちが地を受け継ぐのです。
すべての物事は変化し、過ぎ去るという理解のおかげで、 人は何事にも執着しないようにすることができます ― この生でさえも。
このことが意味することは、生に心を開き、死にも心を開くということです。 この教えを知性で理解しようとしないように。そうすれば、失敗するでしょう。 この教えがあなたのハートに届くようにすれば、それはとどまるでしょう。 もしあなたがこの教えを何かを達成するために使えば、失敗するでしょう。 でももしそれをゆるせば、それはあなたのために働くでしょう。
何もしないときに、一番よい行為が起こります。
努力がないときに、一番よい仕事が起こります。
踊り手がいないとき、一番よい踊りが起こります。
演技者がいないとき、一番よい演技が起こります。
賢人は、人生の基本として、 お互いに関係する正反対のものの二元性を受け入れます。
それゆえ彼は、悪は善からそれほど遠くないことを知っていますが、 彼はその道の外に出ています。 そして悪は、反対したり、破壊すべき何も見つけられないと、静かに消えていきます。
もしあなたが社会一般のために自分が何かするべきだと感じているなら、 ぜひ自分がするべきだと思っていることをやってください。
しかし事の事実は、創造世界に何が起こるかに関わっているのは、創造者だけです。
私は自分を通じて生が起こるようにします。
そして、話すこと、教えることは、この生の流れの一部です。この教えはそれゆえ、するどいのですが、でもまた、それは柔軟でもあるので、人を傷つけることはありません。
科学の急速な発展のおかげで、体のあらゆる部分は、取り替えられる必要があったり、取り替えられることができるかもしれません。
しかし、決して取り替える必要もなく、取り替えることができないものは、
肉体の中の生命の存在―存在の非個人的覚醒―I AM(私はある)です。
私の経験によれば、私が自分の肉体を通じて起こる通常の仕事を生の一部として観察し、私の心が結果を心配しないとき、私は平和を発見します。
私の経験によれば、私の心が裁きに参加せず、感覚に導かれないときに、私は平和を発見します。私は自分が負けたと感じることなく、ゆずるとき、平和を発見します。
私は自分が寛大だと感じることなく、与えるとき、平和を発見します。
私は人生に心を開き、何ごとも抑え込まず、人生がもたらすものを何であれ受け入れ、その瞬間の状況で自分がするべきだと思うことをやります
一日よく働いたあとでは、眠りの快適さが楽しみになるんじゃないでしょうか? どんな知識を追求するにしても、日々何かが付け加えられ、それゆえエゴを強化します。
しかし、自己調査を追求するときは、何かが落ちていき、日々エゴを弱くします。 どんな行為も私の行為でしょうか、それともただ起こる出来事でしょうか?
人生は、あなたがその道から外に出て、それが起こるようにするとき、最高です。
すべての決定、すべての希望、すべての挫折、すべての勝利、すべての喜びは、存在から生まれます。そして、すべての存在の生みの親は非存在で、 すべての行為の生みの親は、非行為です。 あなたは、自分が本当は何を求めているか知らないと思っています。
それでも、あなたに欲望がないとき、あなたはいつもそれを発見しています。 私はどうやって自分の人生を生きるのでしょうか?
私は、物事をコントロールしようとせず、それらをあるがままに受け入れます。
私は状況で自分がすべきことをやります。
そして、結果は結果に任せます。
私は流れとともに行きます!
もしあなたが、希望と挫折、目標と達成に打ちのめされるようにすれば、宇宙の中心の自分の場所を失うことでしょう。 でも、もしその中心に根づいていれば、 表面の出来事はあなたに触れることはないでしょう。 形がなく、無限で、永遠に存在している何か、それは宇宙の母親です。
人はそれにどんな名前も与えることができますが ―非現象、意識、源泉、最初のエネルギー、神― でも、どんな名前も、無限のものを制限してしまうことでしょう。 あなたはそれを常に自分の存在の深淵に発見することができます。 あなたが自分の人生を生きているのではありません。 あなたの人生は、源泉、つまり神によって生きられています。 それゆえ、どんなときにも、 自分がやるべきだと思うことをやってください―それはまさに、 結果が何であれ、源泉、つまり神があなたにやってほしいことです。 成功がやって来るのは、心に目的がないからです。 期待は、存在と行為のくつろぎを低下させます。 期待がないと、行為は非行為になります。 私は自分の内側を見ます。そして、何を見るでしょうか? 時間と空間が始まる前の宇宙の中心です。
私は人生で何をしているのでしょうか? 私はただ、宇宙の中心にとどまって、出来事が起こるがままに眺めています。 私は満足を求めません。何の満足でしょうか? 私は求めず、期待しないので、起こることを何でも歓迎し、受け入れます。
そして、死が来るとき、私は準備ができています。 知恵の本質は、自分の本質と自分がどこからやって来るのか、 その源泉、唯一の現実を理解することの中にあります。
私たちは、自我ではなく、真我です。 私たちが自我を見るとき、怖れがあります。 物事のあるがままの中に確信があるとき、 現在あるがままに存在しているものを受け入れているとき、 怖れの余地がありません。 十分に受け入れることが、豊かさを意味します。 それに対して、豊かさを欲しがるのは、 決して十分にもつことがないことを意味しています。 真のリーダーシップは、仕事が終わったとき、 リーダーは一歩後ろへ下がって、 他の人たちに自分たちがそれをやったと思わせることです。 心の平和や静寂さへの道は、自分がやるべきだと思うことをやって、 それから一歩下がることです。 人々の承認を欲しがることは束縛を意味します。 すべての行為は、それが神の意志ゆえに起こるのです。
それゆえ、その結果もまた、神、つまり源泉の意志であり、 そして、それに影響される人々の運命です。 あなたは今この瞬間にあることが何であれ、それを改善できません。
なぜなら、それは源泉(つまり神)の意志であるからです。
あなたは、神があなたにして欲しいことをしたいと思っています。 そしてあなたの問題は、神の意志を知ることができないということです。 でもジョークといえば、 あなたは、源泉、つまり神が望まないことは何一つできないということです。
「御心がなされますように」
あなたが何かを「美しい」とか「よい」ものとして見るとき、 あなたはすでに何かが醜いとか悪いと決めつけています。 相互関連する反対物は、私たちが知っているような人生のまさに基本です。 一つに対して他方を選べば、あなたは束縛の中にいます。 あらゆる瞬間に何があるべきかについて、源泉に決めさせましょう。 この瞬間の「現在あるがままに存在しているもの」を受け入れることは、 あらゆる理解を超えて輪の中心にいることを意味しています。 すべての精霊があなたの新の望みに対してサポートしています。 あなたは、為すことはもう何もありません。
それが完全性の知覚です。
欲望は条件付けらえた望みです、誰かと比較したり世間体などなど外との条件反射から起こる作用で魂の無条件の無制限の望み(調和)とは何ら関係ありません。だから欲望を叶えれば叶えるほどに足りない感覚が強まります。欲望を捨てて、もうすでにそうなっていると実感すればハートが満ちるのを感じますか? そして、そのプロセスを経て、それがいっしょになると、欲望を叶えても、もうそこには不足感欠乏感はありません。
それを叶えたのがあなたの欲望からでなくハートからの流れであることがわかってしまったからです。 欲望からの自由とは、この瞬間の「現在あるがままに存在しているもの」を受け入れることを意味しています。 そしてそのことは、宇宙の神秘を理解することを意味しています。 欲望に巻き込まれれば、現象という見かけしか見ることができず、 それはすなわち、束縛です。 物質的対象は、精神的対象と同じくらい非現実であるということが、 本当の知識です。 人間は月に人を送るだけの知性があります。 ですから、もし本当に人間に自由意志というものがあれば、 なぜ人間は、世界を現在のような状況にしてしまったのでしょうか? 人は、子供のように生きるように教えられています。 それは何を意味しているのでしょうか? 子供はどんな出来事にも自然に反応するという意味です。 子供は自分自身や他人を裁くことをしません。 恐怖と希望を植え付けるのは、浅はかな霊的教師たちの逃げ場にすぎません。 科学のあらゆる理論、方程式、記号にもかかわらず、未知は未知のままです。 現象の唯一の不変数は、変化です。 もし物理学者が言うこと、つまり、過去、現在、未来は本当は存在しないことを、 私たちが受け入れれば、 誕生とか死などというものは本当にありえるのでしょうか? あなたが知っていると思っていることは何であれ無知であり、 あなたが知ることができないことは何であれ知識です。 もし何かをするための言い訳を探さなければいけないとしたら、 それをしていけません。でもいずれにせよ、それが起きてしまったら、 それについて考えてはいけません。 事実は、人間は決して現実を知ることができないということです。 なぜなら、私たちは現実から離れているのではなく、 私たちが現実そのものであるからです。 私たちは聖なる催眠によって、たえず神にだまされているのです。 その催眠とは、私たちが知っているような人生が起こることができるために、 自分は自分の行為者であるというものです。 相対性理論を理解できないことは求道者を本当にみじめにするわけではありません。 でも、神の意志を理解できないことは求道者をみじめにさせます。 瞑想とは、存在を意味して、そのとき瞑想者はいません。 誰かの行為を裁こうとしているとき、 一瞬、間をおいて、自分に尋ねてください ― 私は誰を裁いているのだろうか? 人間か神か?誰が本当の行為者だろうか? 小学一年生が相対性理論を理解するよりも、どれほど知性があっても、 人間が神(源泉)の意志、あるいは宇宙の法則を理解するほうが、 はるかに困難なことでしょう。
「なぜ」は、物質的生活と科学的研究には非常に必要なものですが、霊的探求においては障害となります。 ある人が「私はエドで、あなたはウドで、二人の人間の間には大きな違いがあります」と言います。でも、二つの違った肉体精神機構に与えられた二つの名前があるだけで、 それらの肉体精神機構を通じて同じ原初のエネルギーが機能するのだと理解すると、 そのとき、エドとウドの間に何の違いもないのです。 たとえあなたが相対性理論を理解したとしても、 すべてはまったくあるがままです。 また、相違性理論を理解しないとしても、 すべてはまったくあるがままです。 物理学者は、個体性は幻想で、 あらゆるものは動きで、相互に作用し合い、あるいは進行中であると、 私たちに言い続けています。 個体性は幻想であるということを私たちに忘れさせているものは、 私たちが考え、言葉にすることが「固定的な物事」を蓄積するということです。 あなたの本質は、深い睡眠や二つの思考の間の中に存在しているものです。 賢人は、達成者ではなく、すばらしい人でもありません。 また彼は完全な人でもありません。 彼は、普通の人がもっているような望み、欲望、挫折をもたない普通の人です。 賢人は、それゆえ、普通の人が真我に近いとされているのと同じくらい 常に真我に近くいます。 ぜひ人生の映画を楽しみ、それに参加してください。でも、それが起こっている意識のスクリーンに必ず気づくようにしてください。 エデンの園でリンゴを食べたせいで、 「知識」によって私たちが宇宙から切り離されたというのは、 本当にジョークです。そして、最も基本的なレベルでは、 すべてのものは「一つ」である、一万のものも本当は一つであるということを、 私たちに証明したのは、分裂する原子から獲得した「知識」です。 信じている人は幸せで、疑う人はみじめです。 でも、両方とも思い違いをしています。 自分自身を知ることは自分自身を忘れることです。 セルビアのことわざに、「謙虚でありなさい。 なぜなら、あなたはこやしから創造されたから。高貴でありなさい。 なぜなら、あなたは星々から創造されたから」とういものがあります。 でもそれでは、単なる肉体精神機構以外のものから創造された この「あなた」とは誰でしょうか? 人生には、本当に、意味、目的があるのでしょうか? たぶんそれは、何かの宇宙的破局がすべてを終わりにするまで、 「生めよ、増やせよ」ということです。 人間に罪を犯させるものは、人間の道徳観だけです。 そうでなければ、人間は高等動物と同じくらい道徳的になることでしょう。 もしある種の一定数が何か新しいことを学ぶと、 それから、その種全体が、「モルフィック共鳴」と呼ばれる波動的プロセスを通じて、 それを自然に理解するのです。 であれば、なぜあなたは悟りを求めるのですか? なぜ、起こるがままに人生を楽しまないのですか?! 自分を死んでいると思えば、失望や挫折の恐れなく、 自分が好きなことを何でもすることができます。 怖れと希望ではなく、愛と感謝にもとづく祈りが、本当の祈りです。 もし人が水に映る月を眺め続ければ、空の月を見逃し続けるでしょう。 もし人が月をさし示す指に焦点を当て続ければ、月を見逃すでしょう。 また、今日の月は、明日の月ではないことを忘れないように! 賢人は、爬虫類と哺乳類の脳から移動して、 新脳として今では知られている中で主に生きています。 その脳は「なぜ」を尋ねないのです。 ニール・ボアは、「偉大な真実は、その反対もまた偉大な真実である」と宣言したとき、すべてを言いました。 あるいは、私たちは、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの 「すべての真実は、半分の真実にしかすぎない」 という言葉も受け入れることもできるでしょう。 しかし事実は、現象においては、「真実」などというものはないということです。 霊的求道の問題は、人がそれを非常に深刻に、 まじめに受け取るようにされているところです。 そのことが、霊的求道の本質である「let go=解き放し」を困難にします。 あなたは、今ここに、います。それ以外のすべての知識は無知です。 あなたは、心から笑いたいと思いますか?では、次のことを考えてください。 何も現実ではなく、あらゆることは幻影である。 すべてはまさにそうあるべき状態である ― よいことも悪いこともなく、受け入れることも、拒否することもない。 求める人というものがいたことはありません。 赤ん坊が生まれて、母親の乳房を本能的に求めて以来、 人生は求めること以外の何ものでもありません。 でも求める人は誰もいないのです。 ですから、心配しないで、幸せでいなさい! あなたは、人生の苦しみから逃れたいと思いますか? たった一つだけ方法があります。
中心にいて、表面で出来事が起こるのを眺めることです。
求めることはすべて、分離の不安にもとづいています。 事実は、求める人は、すでに自分が求めているものです。 科学者たちは、反物質を発見しました。 反物質は物質に反する何をもっているのでしょうか? いずれにせよ、物質であれ、反物質であれ、 その究極の幻想においては、 物質には何の重要性があるでしょうか?! 自己覚醒とは、①怒りが湧き起った、そして、私は怒っていると、 ②私は傷ついている、そしてあなたが私を傷つけた、だから、私はあなたを憎む、 の間の違いです。 もし心が、過去の何かについてのいかなる罪悪感の思考や、 未来の何かについてのいかなる希望の思考からも解放されているとき、 あなたは現在の瞬間に生きているのです。 どうやって「存在」すればいいのでしょうか? とても簡単です。あなたは、昼間、出かけて、夕方、家に帰ります。 思考がないとき、あなたは「家に」います。思考が行き来し、行為が起こるのを眺め、 それから、「家に」再び帰ってください。それが「ただ存在する」ことです。 思考は、現在の瞬間に起こります。 その思考を受け取って、水平時間の思考へと導き、 ストレスと不幸を導く運動を創造するのは、エゴです。 あらゆる人は、源泉、つまり神によって創造された現象界の対象物です。 誰かに起こることは、源泉、つまり神の意志です。 ですから、どんな対象物も、源泉、つまり神の意志も、 また彼の意志が働く基礎も理解することはできません。 何も望まず、何の期待もなく、 ただ瞑想の中にすわること、これが本当の瞑想です。 そして、本当の瞑想が起こるためには、 「すわる」ことは必ずしも必要ではありません。 考える心の欲望や期待からの何の妨害もなく、 機能する心とともに仕事がおこなわれるとき、 それは、また本当の瞑想になります。 つまり、瞑想者がいないということです。 人生は、友人の家のパーティーに参加するのと同じくらい楽しくなることができます。 あなたはパーティーを組織するのに、何か手伝えることがあれば、 何でも助けを提供します。もし何もなければ、 他人のまねをやめ、考えが起こるがままにします。 参加するとき、もし人生のそのパーティーがあなたの性質に合えば、 自分の性質がその自然のコースをとるにまかせます。 もしそうでなければ、パーティーの流れを書き、 自分の好きなことも、嫌いなことも積極的に受け入れるのです。
」
そして、今日『奇跡講座』テキスト全31章読み終えて、このラメッシさんの源泉からのメッセ―ジといろいろ重なり合っていてここちよい感じがじわりじわり。
「 決断は絶え間なく下されている。自分自身と格闘してはならない。 あなたが望んでいる自分が自分のものとなるように、もう一度試みなさい。
今日、私は自分ひとりでは何も決断しない。
一日を通して、あなたがそのことに思いを馳せ、内省のための静かな時間が得られるときにはいつでも、自分がどのような一日を望んでいるか?すなわち、感じたい気持ちや、起きてほしい事柄や、体験したい事柄などを、再び述べてからこういいなさい。 もし私が自分ひとりで判断しなければ、そのような一日が私に与えられるだろう。 自分だけで、判断してことは、必ず攻撃や防御を起こすことになるだろう、それは恐れに起因しているからである。 赦しとともに、判断しなさい。 自分だけで判断したことにきづいてときには再び、どういう一日を望んでいるかもう一度思い出し、そこに属さない何かが起こったということを認識しなさい。それから自分ひとりで質問してしまったこと、そして自分なりの条件で答えを用意していたに違いないということを理解しなさい。 私に質問はない。私は何を決断すべきかを忘れていた。 」
ラメッシさんの行為者はないというのはまさにこのこと。 自分がどのような一生を望んでいるか。 過去は、それを自分で決めてきて悪戦苦闘があった。 「経営者は孤独で、判断業である」という20代であったある経営者のことばを後生大事にとっておいた結果、それは悪戦苦闘の人生となったように見ていた。 悪戦苦闘が悪いわけでなく、それで満足ているお方はそれでいいけど、別の観方の人生があるはずだ。
最近仕入れたことばによると、裁きの人生から赦しの人生へ。
労働というのは、愉しいことというより自己犠牲を払った強制労働的な滅私奉公的なイメージがあった。この苦痛や罪悪感が投影した姿だ。その罪悪感がそもそも存在しないとしたら・・・。 それが赦しの人生だ。すると、労働も気楽な道楽となる。人生が輝くための手段となる。会社は牢獄でなく、愛を延長する場となる。 ブラック企業からホワイト企業にというのは天外さんの取り組みだけど、この方は、ソニーさんでフロー経営を実践されてきた方でもある。 最近、AIがブームだけど、恐怖に立脚した視点で、人工知能が、人間の仕事を奪うというような論調で語られるころが多い。過去の産業革命の機械打ちこわし運動をトレースしているのかもしれない。でも、もしかして別の観方をすると、人間が労働から解放されるという未知なる経験が待っている、ということかもしれない。 筑波大学の落合さんによると、今は魔法の世紀だどいう。 奇跡の世紀。 赦しの世紀。 愛の世紀。 でもあると思う。
ぼちぼち道標としてのブログをはじめて、序歩は、おわり、そして未知なき未知を歩みはじめる。奇跡の道は、いっしょに歩む道。
「
一瞬の間、静まり、私たちが学んだ全ての物事や抱いたことのある全ての想念を忘れ、物事が何を意味し、それが何を目的としているかについて、私たちが抱いている先入観のすべてを忘れよう。この世界は何のためにあるのかにしては私たちの独自の考えも思い出さないようにしよう。私たちは知らないのである。世界の横たわる罪悪感からくる恐れを私たちのこころから解き放ち、一層させよう。 」
日々あらたに、毎日が、祝祭。
これまでの人生と呼んでいたものはぜ~んぶ、夢物語。 夢から目覚めたら、そこには・・・。 そんなきづきが、日々深まっている奇蹟の毎日に贈ることばを綴っています。
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