ときが、きえた日。

今朝、目覚めたら、からっぽになっていた。 

色即是空という既知を重なるまでもなく、からっぽ、ただそれだけがそこに在った。 

とき、が消えた日。

からっぽ、ただそれだけが、ここに在った。 

ひとりは、ひとつに、在った。 

見ることが、止んで、 

聴くことが、止んで、 

考えることが、止んで。

ただ、見る。 

ただ、聴く。

ただ、考える。

ただそれだけが、ここに在った。

見続けることから、開放され、 聴き続けることから、解放され、 考え続けることから、解放される。

 見去る。 聴去る。 言去る。 

それは誰もが通過する祝福だった。

それは犠牲でなく、恩寵だった。

すべてはすでに与えられていた。 

いくべきところも、すべきこともなにもない、ただそこに漂っていた。 

既知の全てが去っていき、未知が未知のままに顕れた。

ただ、みるが、そのままある。

ただ、きくが、そのままある。

ただ、いうが、そのままある。

全ての条件反射の鎖から解き放たれた。

自作自演の深刻劇のはざまに、たましいの闇夜へて、さらに数年経った。 

人生変転の時期というのは、すべてを失うように見せて、すべてに満たされていくプロセスだ。青虫が蝶に羽化するように、変態する時期ともいえる。

まず出会うのは、 「取り消しの時期」だ。 

取り消しの時期は、魂のレンズ磨きの時期ともいわれる。手放しの時期ともいわれる。クレンジングの時期ともいわれる。 サラになる時期だ。 普通は、日々夜サラになって目覚めて動く。人生長くいきていろんなものごとを罪重ねていくと、それら積もりたまっていろんな出来事にねって歳末クリアランスセールになる場合もある。既知を繰り返すたびに、「ありがとう、あいしてる」といいながら、更新していったり、「手放しますか、手放せますか?いつ?」なんて対話して更新しいったり、「それは本当ですか?」と質問することで更新していったりここではまだ行為者が活躍している。 

そして、澄んでいく、そのころに、 「弁別の時期」と出会う。 

弁別の時期とは、分別とも、見極めともいう時期だ。 弁別する基準が、まずは「過去の経験」にある。 価値あるもの、価値なきものを弁別して見極めていく。 何かを手放しながら何かを保持する。 ここでは、陰陽がまだ離れている感覚がともなう。 

そして、「放棄の時期」に移っていく。 無分別の時期だ。 放棄をしようとしている誰ががまだいる。 分別しない誰ががまだいる。 何かおおいなる何かにゆだねきれない、誰かがいる。 「自分自身の最善の利益を真理のために犠牲するよう求められいる」誤解をしている。誰ががいる。 「誰だろう?」 向き合いなおすと、 「ただ、静謐がある」 そして、影法師が顕れる。 価値と無価値の分別が分別することから本当に分別されると、そこは空になる。 「真の価値」という恩寵が、どこからとなく、満たされていく。 「真に何を望んでいるのか?」がじわじわと何かを諦めることによりあきらかになっていく。 すべての学びが純化して統合されるそのとき、 

 「達成の時期」はおとずれる。 

達成の時期は、奇跡の時期だ。 達成の時期は、赦しの全うの時期だ。 達成の時期は、愛に満たされる時期だ。 この達成を携えて、この世界にかかわっていく。 これまでの知識への参照は一切なく、智慧を顕していく。 過去学んだことは、去っていった。 あたらしい学びとは、きづきの視座でおとずれる。 ただ、観照に在るだけで、すらりすらりとととのっていく。 観照者なき、観照。 量子的飛躍は、この在り方を主福する。 ありがとう、あいしています。  


写真:イブキチエコさん

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日々あらたに、毎日が、祝祭。

これまでの人生と呼んでいたものはぜ~んぶ、夢物語。 夢から目覚めたら、そこには・・・。 そんなきづきが、日々深まっている奇蹟の毎日に贈ることばを綴っています。