愛と赦しの顕れとしての、経営。

 企業は離合集散、弱肉強食を経て、大が小を飲み込みながら、勝ち残ったなにかが残っていくと見える、金融資本至上この世界。

果たして人類は、しあわせになったのだろうか? 

経営は、勘定あわせだといい、グローバルスタンダードな会計基準をあてはめて、四半期決算に右往左往。これでは、1000年を見越す経営などできようがない。 

今年に入って、まず気になったのが、「キリスト」だった。

とはいえ、キリスト、教に入信して洗礼を受けたいとか云々の抹香臭さはそこにはなかった。

ただ、キリスト意識への憧憬があった。

もしかして、処罰の対象として見られている十字架は、創造の原理を示しているのではないか、何か秘密が隠さているように思えた。 

そして、いま、思う。 

もし、キリストが経営者だったら、まずは愛からすべてをはじめるだろう。

企業活動は、本来愛の表現である、という見方もできるが、それはほとんど「条件づけの愛」だ。そこでは、常に「いい子」になることが求められ「いい子の基準」で飼い馴らされていく。いい子は見た目は品行方正だけど、そこに野生のいのちの働きはない。 

「柔和なものは地を受け継ぐ御心が行われますよう、天にも地にも」 

しなやかに流れのままにそれを信じて任せ、したたかに地に根を伸ばしながら、根張る。 

日本型経営の神髄はここにあった。われよしの計らいを捨てて、みなよしの計らいを受け入れるとき、われもよし、みなもよしとなっていく。御心のままに流れを信じていけば、すたりすらり間に合うように、なっていく。すべては自ずと、最善に導かれていく。 キリスト意識に気になりだして、まず手にした書籍が『黎明』葦原瑞穂だった。当時は、一気に読み進めた気がするが、今朝ふと思い出し扉を開けてみた。


「 天命 私に思い出させてください。 永遠の 時の中で この美しい蒼い星が 金色の光と成るときに あなたに願って この世界にきたことを あの頃は、すべての出来事が そこに在ったけれど 来てみれば 気の遠くなるような歳月 ひたすら待ち続けた時が満ちて 今 あなたに出会った 私に 思い出させてください。 あなたが伴にはたらいてくださることを 無限の 愛と力と叡智が 私たちの中には何時も在ることを この美しい蒼い星が 平安と愛で満たされますように どうか 私たちをお使いください。 『黎明』葦原瑞穂 


今年は、まさに「黎明」に相当する年だった、じわりじわりすべてが刷新されていくと同時に思い出されていった。 この本の中に、大師という章があり、そこにはこう書かれていた。 この章の前にはチャネリングの詳説と問題点を述べた上で、「著者の知る限りでは前述の2冊の本のみが、その霊的な奥深さや内容の正確さにおいて、本物であるとお薦めできるものです」として、『心身の心癒』と『奇跡講座』をあげた上で「イエスを表現した魂が再び地上に肉体をもつかどうかについては、多くの人達が関心を寄せているようですが、キリストの再臨という言葉の本当の意味は、ひとりひとりの人間が自分の内なるキリスト。すなわち普遍意識に目覚めることなのであって、特定の魂の表現という幻想に興味をもつこと、つまり外の世界に救世主を求めている意識の段階では救いはないことを、くれぐれも忘れないで頂きたいと思います」と、偽我の危うさを指摘している。 


「神は愛で在り、愛は神で在る。しかし、この言葉が何を意味するかを識っているものはまだ誰もいない。ただわれわれ(普遍意識)だけがその意味を識っている。あなた達はきっと、神や愛について色々な理論を造り出してきただろう。しかし、そのようなことをしてはならないのである。外部からの様々な意見に影響される事無く、あなたたちは真理を顕していくべきであり、また、『こうである』と最終的な結論を(自分ひとりで)出してしまってはならない。断定してしまえば、真理に至る道が閉ざされてしまうからである。『心身の心癒』 


キリスト「教」は世界に浸透しているが、「教団」は「戦い」を産んできた、世界の戦争は、この教団どうしの戦いが根源にあると思う。愛と平安を教えようとしているものどうしが、その平安を対極する戦いを起こす。企業同士の競争もまた、競争することで切磋琢磨して、進化するという、文明病のひとつだ。ものは繁栄しているようにみえても、こころは減衰している。真の豊かさは、無条件の愛からうまれる。ここに創造の原理がある。 無限に拡大することの象徴としての宇宙。宇宙から無限に与えられている愛、その愛がいつのまにか、条件というの制限がつきはじめてから、将来に不安ともち過去の後悔をもつというこころがうまれた。こころそのものは、この瞬間に輝くだけであるのに、その不安と後悔でくもらせていった。 分離、これが、罪悪感、恐れを産んでいく。 分離して、自立して、孤独になり、苦闘する。 人生、思い通りになるように、引き寄せの法則をつかったり自助努力しているけど、10年前あなたが創造した姿にいまあなたはなっているだろうか。 

ラメッシによると、分離した自分(個別意識)が思い通りに動いて実現しているというのは、聖なる催眠であり、すべては(普遍)意識の顕れであるという。この世界は、関係性(二元)を経験する場なのでまずは自分がないと成り立たなくなり、世界そのものが消えてしまうと。

もう一度問う、「人生思い通りになっているその思いとは何だろう。」

それは、ほとんどが社会に条件づけられた何かでないだろうか? そしてその条件を満たしたときに、人生は幸福だと思われてきた高度成長社会を経て、それはほんとうだったろうか? 50を過ぎてそれがあやふやになっていく。踊られてきただけだったのかもしれない。

 天命を顕す。 

条件の閉塞感に飽き飽きしてきたとき、それが幸福を約束しているのではないときづきたとき、それらをひとつひとつ、ときは強制的に、ときは自然に離れて自分は人生を切りひらいていくのではなく、人生が自分を生きているのだというきづきが訪れる。思考が逆転する。 

金融資本主義社会(という幻想)なかで生きるというご縁を得た以上、その資本主義のルールにのっとって生きる。 そして、コンプライアンスだ、ブラック企業だ、いろんな裁きがそこには入っていく。 愛には裁きがなく、赦しだけがある。 そして金融は癒しのはたらきになる。そんなことをしていたら、犯罪の温床なるではないか、と聞こえてくる。 恐れに立脚した分離意識の声だ。 たぶん、法律が複雑になればなるほど、犯罪も高度化複雑化していくのではないだろうか?滅菌すればするほど、耐性菌が産まれてくるように。 愛資本主義社会では、その基調価値は「赦し」と「信頼」だ。 赦しは、何か罪を犯すことを許す、という意味ではなく、その罪は個々の深層意識による罪悪感という源から発生しているので、それをクリアにするという意味だ。 そして、信頼も、自らつみかさねてきた「条件の集まり」である信念の強化ではなく(それが閉塞感の源だから)、流れへの信頼、流れに明け渡して、人生を生きるから人生が生きるにシフトする感覚だ。 自力本願から他力本願へのシフトだ。 愛資本主義社会は、 赦し資本主義社会であり、 そして信頼資本主義社会でもある。 ここには分離はなく、ふたつがひとつだ。 具体的な物事に対しても、決してひとりで決めようとはしない。 シフト。 これまでの価値観を解放して、新しい価値観を受けいれていく。 それは地動説から天動説へのように、まったくの思考の逆転が必要になり、最初は戸惑うかもしれないけど、おこりつつあること、それがこの恐れから愛へというシフトなんだろうと思う。 

 御心のままに、という。 

恐れはそんな何かわからないものに任せることができるかといい、昔のとある宗教団体がそれで大量虐殺をした例をあげたりして委ねること、明け渡すことへの本質から遠ざけようとする。明け渡しの対象があるとしたら、限りないいのちの働きと、限りない光の本源にだ。それを親鸞は、南無阿弥陀仏に表現した。しかし本意は、その偶像ではなくあくまで限りないいのちの働きと、限りない光にだ。ただそれだけとなる。 

団体は、その団体を維持するために、戦い(=恐れ)というエネルギーを必要とする。 そして恐れがを補給しながら、振り子のように、右左、善悪、苦楽を振って生き延びていく。

そこに御心という無条件の愛が入り込んだときに、その力は幻想であると見極められ、振り子(団体)は消え、真理のみが残る。

真理は、目に見えない、それは、こころの目で感じるものだ。 これからの社会は、めざめた個々がゆるやかにつながっていくことで豊かさを循環していく流れだけど、そのまえに、まだ企業という団体による経済活動で個々の生活を支えるというしくみは温存される。しかし、その企業経営の捉え方が、恐れ基準から愛基準にシフトすることで、企業という「家制度」からじょじょに解放されていき、個々がその本来の能力を100%発揮できる信頼が育つための場となっていく。そして全ての信頼が育ってきたら、企業もまたその役割を終えることになるだろう。そこに新しい企業の姿がある。もし、キリストが経営者だったら、愛からすべてをはじめるだろう。 固定観念を見極め、それを諦念する。 分別を見極め、無分別の智に拓いていく。 そこに、これからの企業の姿、世界のひかりがあるのだと思う。 企業という偶像が消えたときに、その本質が顕れるのだ。

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日々あらたに、毎日が、祝祭。

これまでの人生と呼んでいたものはぜ~んぶ、夢物語。 夢から目覚めたら、そこには・・・。 そんなきづきが、日々深まっている奇蹟の毎日に贈ることばを綴っています。