思考は、それ自身創りあげているものだけを栄養として生き得るだけで、その栄養源がすなわち単なる観念、言葉、信仰などなどです。思考が自らの愚かしさに気づかないと、思考は思考をかきたてるさまざまな問題をつくりだし、思考自身が問題の原因であることがわかりだすまでは、おしゃべりをつづけます。 未熟な思考は、いつも問題をつくり、それを思考自身のレベルで未熟な思考をつかって解決しようとします。しかし、それは新たな問題を作り出すだけで、決してやむことのない、終わりなき因果の鎖が生じます。それが止むのは、愚行を繰り返し、いかに思考自身がこの状態の原因となっているかに、きづきはじめたときのみである。 聖なる瞬間に未熟な思考は、円満な思考に変容します(『キリストのヨガ』)。
人生は、お遊戯のようです。
なんとかごっこをくりかえし、幼子はやがて大人になっていきます。
一つの玉手箱をあけてはわくわく楽しんで、それが過ぎては、新しい玉手箱にであいます。
家から離れて最初の玉手箱に出会ったのが、約30年前。
思い起こせば、その30年前に、サヌキは、八ヶ岳山麓で、慣行農業(化学肥料農薬栽培)の世界ではじめてアルバイトとしてかかわっていました。マスクをして農薬をかける、そして自家用にはそれのない野菜を食べる。農薬のかけない野菜は危険だからというより、虫にやられたら商品価値がなくなるからという理由ですが、そこに、純真といいますか、臆病といいますか、なぜか何となくうしろめたさを感じたんです。でも、ただのアルバイト、そのなんとなくは、なんとなくのまま過ぎ去りました。まずは家を離れて自立していくことで精一杯だったんですね。
「 農作業は、本来、あらゆる波動領域で自然界と交わり、安全な調和に中で行われるものですが、人間の他の営みと同様に、物質文明発達に伴って物質レヴェルの現象にのみ囚われるようになり、目標を果たすために物事を短絡的に考えて、全体との関係を見失って逝った結果、様々な不調和な現象が生じてきたことは、既に多くの方が気づかれていることと思います。 例えば農薬を使用するということは、それ自体が自然の摂理に反しています。人間の場合と同じように、植物が調和した状態に在り、生命力に満ちているときには、病気が発生することもなく、虫の被害も大きくはなりません。 」(『黎明』葦原瑞穂)
そしてその10年後、なんのめぐりあわせか、無意識に感じていたことを温めていたのか、蓼科でオーガニックスパリゾートというコンセプトで宿泊施設をリニュアルするというコンセプトに共感して、宿泊施設の食材を仕入れるために、有機農業の世界(有機肥料無農薬栽培)にかかわりはじめました。 窒素は肥料でやらなくても空気中の窒素を固定するからいいとか、窒素固定菌とか、アイガモ農だとか、植物が根から吸収できるは硝酸態窒素だけど、その硝酸態窒素を虫は好むけど、人間には毒になるので有機肥料は完熟にしないと使えないそれには時間がかかるとか・・・ご縁のあった農家さんは大手電子機器メーカーの特許室におられた方で研究者の香りを漂わせながら、語っていただいたのですが、何が何だかちんぷんかんぷん手探り状態がつづきました(笑)。当時は、インターネット黎明期だったので、駆使していなかったんですが、いまでは、硝酸態窒素に対する知識はネットなどですぐわかります。
便利な世の中になりました。
当時は、オーガニックは、「なんかの宗教?」なんて周りに言われ遠目にみられていたかもしれません。施設で出す全メニューをオーガニックにするという出発点から当時でオーガニックといえば久司さんだろうとお招きしてその宿泊施設でセミナーをやったり、近くに玄米菜食を社食にするという化粧品メーカーがあったり、でいろんな活動がめぐりあいながら時は流れていきました。世の中は、新しいことは好まれると同時に、抵抗勢力はつきものです。採算がとれない状況で、抵抗勢力は強まり、オーガニックツーリズムは、そば打ち体験という体験ツーリズムに変わっていきました。
今から思えば、当時は、農薬や化学肥料を販売する農協さんとか採算だけを見る金融機関さんを抵抗勢力と感じていたのですが、これを書いていて、ふと外にあるのでなくて、内にあったのかもしれないと思いました。「安心安全」とか、「理想」とかって、それが「正義」となっていくと、敵が自然にあらわれて、戦いになるのかなあ。畑にも虫が自然にあらわれて戦いになるように。思考で手繰りだした「正義」は、いつかは息詰まる、行き詰まる。拘ることは囚われること、それらがすぎると、その逆方向にエネルギーがはたらくのかもしれませんね。自然食をたべている人が健康のために食べているのになぜかお顔が黒く不健康そうに見えたり、こうでなければならないと拘りだすと、なにか歯車が違ってくるのかもしれません。うれしいか、たのしいか、がしあわせなのに正義感とか理想という大義名分に囚われると、それが義務感になり、うれしいたのしいという初動から離れていきます。
タイムトラベルは、つづきます。
日々あらたに、毎日が、祝祭。
これまでの人生と呼んでいたものはぜ~んぶ、夢物語。 夢から目覚めたら、そこには・・・。 そんなきづきが、日々深まっている奇蹟の毎日に贈ることばを綴っています。
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