サヌキと、アワ、お茶を愉しむ。

ここ数か月、サヌキとアワはお茶の世界を愉しんでいます。

 『利休にたずねよ』を昨夜観ました。

お茶の「わびさび」の物語を描いています。

花鳥風月、自然に移ろいのなかで、はじまりもおわりもない静寂に溶け込んでいきます。 

「あなたにはこの茶に、喜びが溢れているのがみえんのか?」、一服の茶のなかにある小宇宙。

過ぎては去る、過ぎては去る、何にもつかむことのない、この浮世のなかで、その儚さを味わい、その味わいのなかをさらに味わう。 

観るを、観る。 

幸うを、幸う。 

みていたのがいつのまにか、みられている。

そして、みられているものをみている。 

そこには、誰も、いない。 

ただ、それだけがある。 

ただ、静謐だけがある。 

ただ、至福だけがある。 

ただ、包摂だけがある。 

茶碗の中の宇宙は、こころの写し鏡。 

罪――罪悪感――恐れの茶。 愛――赦し――歓喜の茶。

 その茶碗には、儚く、移ろいながら、静かなる喜びが溢れている。 

茶道は、戦国時代の只中に産声をあげた。 闘うか、逃げるか、生きるか、死ぬか。 恐れのなかから産まれた。 そして、その恐れは、お茶のさまざまな所作のなかに消え去り、静寂のなかから真の平安が起きてきた。 ここ数か月の相方とのお茶の交感も、過去の記憶を超えて、集合の記憶の中に溶け込んでいき、その記憶そのものも取り消されていく・・・。 

わたしがあなた、あなたがわたし、わたしがみんな、みんなはわたし。 

すべては、あんたが源でわたしが源なのだ。 

わたしの内的状況があなたが外的状況となりあらわれては過ぎ去る、

あなたの内的状況がわたしの外的状況として、あららわれては過ぎ去る。 

 自他一如。

 それはふえもしないし、へりもしない、すべて。 それはうまれてもいないし、ほろびもしない、すべて。 その実相に創造の源は、在る。 

利休の遺したお茶は、組織化して、形骸化していきました。

 その本質は、本質そのものに目覚めること。 

そう、真の愛に目覚めることなのです。



 「 投影が知覚を作り出す。あなたが見えている世界は、あなた自身がそこに与えたものであり、それ以上のものでない。しかし、それ以上でないとはいえ、それ以下でもない。したがって、あなたにとってそれは重要である。それはあなたの心の状態を証するものであり、内的状況の外的映像である。人はその心の思うごとく知覚する。だから、世界を変えようとするのはやめなさい。そうではなく、世界についてのあなたの心を変えることを選びなさい。 」『奇跡講座』21章序1  


世界についてのあなたの心は、いわゆるわたしの心ではありません、わたしを超えた、おおいなるわたしのこころです。おおいなるわたしのこころはそれをいまここで選ぶことができます。 茶碗が写し鏡であるように、仕事も、人間関係も、すべては内的状況の外的映像です。その内的状況は、個々の個人的記憶からはじまり、人類の集合的記憶に連なります。 個々の個人的記憶は、実は、人類の集合的記憶の合わせ鏡でもあったのです。 だから、個々の個人的記憶という結果をいくら変えようとしても、その閉塞感がいつまでも消えません。その真の原因である人類の集合的記憶が霧散しない限り、それは繰り返されます。ユングさんがいう、元型。エックハルトトールさんのいうペインボディ。 わたしのこの恐れが消えることは、人類の悠久の恐れが消えること。 恐れのひとつに死への恐怖があります。欠乏の恐怖からはじまり、苦痛の恐怖となり、消滅の恐怖に至ります。


たべれることは、いかされること、欠乏の恐怖から解放されること。


農は、たべれることの基盤を支えています。それをみていきましょう。緑の革命1.0では、食糧を人為的に大量生産、大量消費するしくみを構築しました。いまこれから出会うことになる緑の革命2.0では、食糧が自然に、多品種、適量生産、適量消費となり、廃棄という無駄もなくなります。 真の豊かさが、畑に映し出されます。地球人の食は地球で間に合うようになっている。 それが間にあっていないかのごとく見えるのは、欠乏意識が映されているだけであり、欠乏意識を取り消けせば、 


「完全に満たされているという充足感のみが平安である」(『奇跡講座』7章Ⅳ) 


わたしも、みんなも、すべてが、衣食住情が完全に満たされています。


 「 農作業は、本来、あらゆる波動領域で自然界と交わり、安全な調和に中で行われるものですが、人間の他の営みと同様に、物質文明発達に伴って物質レヴェルの現象にのみ囚われるようになり、目標を果たすために物事を短絡的に考えて、全体との関係を見失って逝った結果、様々な不調和な現象が生じてきたことは、既に多くの方が気づかれていることと思います。 例えば農薬を使用するということは、それ自体が自然の摂理に反しています。人間の場合と同じように、植物が調和した状態に在り、生命力に満ちているときには、病気が発生することもなく、虫の被害も大きくはなりません。(中略)害虫や病原菌を駆除することを目的にしてしまうと、虫は殺されるような状況に対抗して、子孫の維持のためにこれまでの数千倍もの卵を産むようになり、薬品への耐性も増していきます。また化学薬品は、消毒という名目で毒を撒いているわけですから、病原菌だけでなく、土壌に棲んでいる微生物まで殺してしまいます。このため自然界の完全な循環の中で土壌の微生物が行っていた、土の中で栄養分を作り出す働きがなくなり、薬品が直接植物に及ぼす毒性と相まって植物はエネルギーを失うため、まずますヴァイブレーションが下がります。 そこで、今度は化学肥料を使ってごまかそうとするわけですが、化学肥料というのは人間のヴィタミン剤と同じで、物質レベルの組成、すなわち分子構造としては必要な栄養素が揃っているように見えますが、生体にとって本当に必要な生命エネルギー(現象的には、高次媒体に生じている波動スペクトル)がほとんどありませんから、有機肥料とは全くことなったものなのです。 」 (『黎明』葦原瑞穂)


 炭素循環農法の畑、自然栽培の畑、天然農法の畑、農法という脳法に制限された畑、土壌を掘っていくと、固い土の層にぶつかります。それを、耕盤層と呼んでいるようですが、たとえばこの耕盤層は、雨の多い日本では、すぐに畑をみずびたしにして、作物の生育を妨げる壁となってしまいます。そして、脳は、この層を物理的に耕すことで破壊します。

頭の中の耕盤層が土の中の耕盤層をつくっているとしたらどうでしょう?

頭のなか(内的状況)が土のなか(外的映像)としてあらわれてるとしたら、物理的に破壊されても頭のなかのシフトがない限り、またそれは再発することなります。 

この耕盤層だけでなく、防除もまたそうですね。人間の病気もそうかもしれません。

 あるお方の畑を観させていただいて、有機農業から自然栽培への転換中の畑で、それはなにか殺伐として苦しさそうな畑に「見えた」のですが、それは脳が見ただけで、こころの目で見たら、その畑はすでに豊穣に満たされていました。そして、その畑は脳が見ても満たされるという結果が起こりました。これも、内的状況の外的映像です。 いまそうだからと見えても、何も嘆く必要はありません。

 そこに関わる人々の集合意識と土中の微生物がひびきあいながら、農作物という結果が顕れます。悪戦苦闘の末、絶望して、すべてを諦めたときに自然の働きにお任せすれば余計なお世話(化学肥料・農薬)をしなくても、ピカピカ光った農作物は自ずと育っていきます。自然栽培だから少なくとれて小さくけど、味は濃くうまいというのも固定観念で、いのちのしくみに従えば、大きく、多く育って、しかも味は濃くすっきりしてもうかるようになっていきます。 

自然の流れにまかせて、ただ、ありがとう、今日も元気だね、すこやかだねと肥ならぬ声をかけていくことによって、それがみえない栄養となり、野菜ができるしくみがそれに応えていく。自然栽培というと、木村さんの奇跡のリンゴが象徴されるけど、そのような物語は、無数に在り、無名な畑にも、無垢な喜びが在る。無我になるとき、畑は応える。 

うれしい、たのしい、おいしい気持ちで関われば、うれしい、たのしい、おいしい作物が自ずとできるし、すこやかな気持ちで関われば、薬菜になる、医食同源は薬膳として表現されているけど、その源は意識そして、農作物は意識の延長としての薬菜となっていくのです。


「 農業においても、(脳業でなく)普遍意識の視点から観た「正しいやり方」というのは常に存在していますが、それは従事する人やその土地のヴァイブレーション、その時の気候やその他の状況によって、それぞれ違った表現を採ります。したがってある条件の下では正しかったやり方を、そのまま別の状況にもってきても上手くいかないわけで、多くの人達が期待しているように具体的な方法を説明したり、一般化して教科書のようなものに纏めることはできない相談なのです。前述したコートドールのワイン生産者、マダム・ラルー・ビーズ・ブロアさんは、自らの体験を次のように、語っています。『今から十数年前、当時のブルゴーニュの畑は潤いをなくしていました。農薬の撒かれた土地からは悲鳴が聞こえ、生気のない葡萄の樹が立ち尽くしていました。こんな状況では私のワインは創れない、それなら葡萄はこの手で私が育てていくしかない、そう決心したのです』『生命の根幹を成長させる土。この土が生きていかなければ、葡萄の樹だって健康に育つはずはありません。私はすべての農薬を切り捨てて、有機肥料のみで行う土の手当をはじめたのです。しかしブルゴーニュでは、1ヘクタールあたり6000リットルの標準生産量なのに対し、この農法では約三分の一になってしまいます。それでも私は迷いませんでした』それから約十年が経って、ようやく前に述べたような効果が顕れてきましたが、更に彼女はこういいます。『但し、これでビオディナミが終わったのではありません。様々なヴァリエーションで訪れる自然の脅威に対しての、隙のない術が必要です。きっとそれは一生つづく課題です』普遍意識の顕現とは常に新しく、これまでの状況を超越するものですから、ひとりひとりがその場所と時間において、自分の心の奥底から湧き出る意志をそのまま顕すこと、つまりこの内なる意志(はからい高い頭脳でなく)を、自分の持っている固定観念や世の中の習慣、あるいは他の人達の言動等によって、妨げられないようにすることが、決定的に重要になります。これはひとつ間違うと、自我意識の独裁的な思い込みに翻弄されることになりますかr、識別は極めて慎重に行わなければなりまえせんが、本来の意味での自分の仕事、人真似ではない自分自身の表現をすることが、何よりも大切なわけです。 」(『黎明』葦原瑞穂)  


自身、これまでいくつか畑をみてきた実感として、頭はどうしても収穫量が気になるというところもあるし、前述の葡萄事例の場合、慣行農法に比べて収穫量が減るという観念からはじめているけど、ほんとうは、その収穫量の潜在力(量も質も常識を超える)は途轍もないことにななのかもしれないと感じています(実際倍増というところもあったり、同時に味覚がすっきりしているのに濃いということもあったり、しかも、日持ちがいいつまり高リスク高コストという常識はそこにはなく、商業ベースに乗る可能性を十分に感じました)。いのちのしくみは生成発展にあり、太っ腹なのですね(笑) 信頼の深化、これが畑と微生物との間で醸成していくのと同時に、自らの深層意識との信頼も深く醸成されていく。収穫量や品質も含めて関わる人の個々の経済もすべてそれぞれバランスよく間に合うようになっていくのだと確信してきています。 


「 君はものごとをありのままに観なければならない、そうすれば、君は自分自身を正見する。このようにして心の静けさは生じるのであり、この静けさの中においてのみ、実在は何ものにも制約されない状態の中で働くのである。息子よ、この生き方の中にのみ、真の天啓(インスピレーション)はあり、これこそがわれわれの望むものなのである。過去の堆積より放たれ、『実在するもの』『新しきもの』を妨げている一切のものより放たれた、無礙、自在のこころ。君は過ぎ去りしもの、古きものに妨げられることを手放して、新しきものを迎えなければならない。 」(『キリストのヨーガ』)  


お茶の話から農の話へ。本質は、ここにあります。

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日々あらたに、毎日が、祝祭。

これまでの人生と呼んでいたものはぜ~んぶ、夢物語。 夢から目覚めたら、そこには・・・。 そんなきづきが、日々深まっている奇蹟の毎日に贈ることばを綴っています。