恐かったのは、私自身だったんだ。
それがふと俯瞰したときに、だんだんその恐さから枠が外れてきた感じがした。
何が怖かったんだろう。
何を恫喝しつづけてきたんだろう。
離ればなれ、孤独、捨てられること、何かから。
そこと真正面から向き合うことをさけて、あるときは、起業、ある時は飲酒、あるときは・・と外を忙しく、忙しくして、そして外を咎め、裁き続けることで、 実は、自らを咎め、裁き続けてきたんだ。
虚空から、その輪廻――カルマ――が、止んだ。
しばらくは、その――恐怖という――虚像は、残って、外側のスクリーンに映し出されたけど、だんだんそのエネルギーは減衰して、過去参照のこころの動きは、少なくなってきた。
ただ、自我観察をつづけているだけで、観るだけで。 最初は、ありがとう、愛している、を繰り返したり、手放しますかと意図的に感情を手放したり、いろんな道具は使っていたけど、そのうち、道具そのものを(使う誰か)が離れたり、出てきたり・・・。
昨年、8月8日、突然しらふになった。 その後も、過去を後悔することと、未来を不安に思うことで、恐かった私自身は訪ねてはきているけど、懐かしいけど新しい、機能であり機能でない、存在。
「聖霊、観音、根源・・・」名付けると、色あせる、その存在。
すべてを包み込み、肯定して、愛だけの、その存在。
うすらうすら、招きつつは突き放し、そして、完全に、先導してもらおう。
みこころのままに。
自分が自分に恋に落ちる・・・とき、自分が自分を諦める。
そうだと思ってきたすべてを諦める。
恐いって、無意識の比較と判断だったんだ。
無意識に起こっているから、どうすることもできず(と錯覚して)、途轍もなく得体の知れない恐さと闘ってきた氣がする。
バトルゲーム、かくれんぼ遊び、闘ってきた氣がしたのは、ただの戯れ、あそび。
そこに深刻さは、ない。 恐いって、深刻さを真に受けることだったんだ。
個人的行為者は消えて、全一的な聖なるシナリオが起動する。
あなたはその登場人物となりただ、演じているだけ。
気をつけることは、誰もが創造主という観念だ。
自分さえよければいいと、幻想の豊かさを引き寄せようとする主。
諦める。 諦めることは、我慢することでなく、解放されることだ。
そこにはなんの犠牲もない。
ただ、あかるみになることだ。
在るがまま、ただ、在るがまま、私は生きている。
私は存在している、わたしと思っているわたしでなく、わたしそのものは、いま在る。
すべての恐れは、単なるこころの投影、過去の記憶によるものだ。
それが、個人的な記憶のように見えていたものも、集合的な記憶が個人に投影されている。
その恐れは、あなたのせいであり、あなたのせいでない。
その考えがなかったら、何も、恐れるものなどない。
いまこの瞬間に還る、ただそれだけで。
考えは、今この瞬間に還ることを、現実逃避だという。
過去、未来に逃避行しながら(笑)
その考えがなかったら、何も、恐れる必要などない。
「
奇跡は恐れからの解放を獲得するための方法である。啓示は怖れがすでに廃されている状態を引き起こす。したがって、奇跡は手段であり、啓示は目的である。
」(T1:Ⅰ28)
日々あらたに、毎日が、祝祭。
これまでの人生と呼んでいたものはぜ~んぶ、夢物語。 夢から目覚めたら、そこには・・・。 そんなきづきが、日々深まっている奇蹟の毎日に贈ることばを綴っています。
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