欠乏、恐れの思考体系は、いつも「加害者」「被害者」の構図を外にこしらえます。
競争、競争、競争、カインとアベル。
比較、判断、嫉妬・・・。
醜さ。
観たくないもの。
観たくないから、外のせいにして、外を咎め、裁き続ける。
内なる、評論家、内なる裁判官、内なるエンマ大王。
賞罰委員会をいつもひらき、褒めては、叩くを繰り返す。
飼い馴らし。 これがあたりまえだと信じ込み、自分の生活を防御する。
罪悪、罪悪感、恐れが、なかったら、この世界は、どうなるだろう。
すべてが与えつづけられているというのに何を守ろうとするのか。 罪悪、後ろめたさが、そうしようとする。
あなたでない、うそのあなたが。
「
愛によって愛と同じに創造されたあなたは、不満を抱くことはできず、あなたの自己を知っている。不満を抱くことは、自分が誰であるかを忘れてしまうことである
」(wb;l68-1-1-3)
不平不満から、批判が起こる、不平不満から争いが起こる。
不平不満から、何かを探しづける。
「探しても、見つからない」
その代替は、観つかるだろう。会社、仕事、社会、 テレビ、ゲーム、新聞、雑誌・・・おもちゃが。
玩具にあなたの罪悪感を投影して、咎め、裁き、その源をみなように、する。紛らわせる。
そして、人は、いい子を演じ続け、罪悪感を隠し続ける生ける屍となっていく。
あなたが、この世に生を受けて、最初に選んだこと。
憶えてる? あの母体の至福の海のなかで、愛に包まれていたあなた。
そこから、収縮と拡散を、緊張と緩みを繰り返し、天国から離れていく、あなた。
バーストラウマ。
これが最初に選んだこと。 強制的に離れたと信じ込んでいるけど、実は、そのシナリオはあなたが書いたこと。
だから責めるんだ、無意識に。
何か目標を決めて、達成するというプログラムは、ここから生まれているんだ。
人類が、
罪重ねてきたことを、
罪滅ぼしのプログラム。
でも、もう、責めることはない。
あなたは、あなたがシナリオを書いているシナリオに気づき始めた。
ひとつの神の記憶。神々でない、ひとつの神の記憶に。
そこ離れたことから、罪、罪悪感、恐れ、不平不満が再生されつづけているというきづき。
永遠のラットレースだ。
これにきづくことも、神の記憶には書かれていたのだ。
「決して、誰にも(我慢なく)不平不満を抱かないってできる?批判せず、糾弾せず、攻撃しないってことを」 お茶の間の箱は、いつも、批判し、糾弾し、攻撃に満ちている。
社会という鏡も、いつも、批判し、糾弾し、攻撃に満ちている。
いつも、競争相手が顕れて、闘わざるを得なくする。
あなた。
あなたは、負け、被害者になる。
そして、あるとき、あなたは勝ち、加害者になる。
社会的弱者は、負けの象徴、社会的強者は、勝ちの象徴。
でもそれら「すべては、幻想である」
何も起こってはいなかったのだ。
初心に還る。
愛に還る。
その醜さも、その怒りも、その不満もすべて戯言。
咎めず、観る、こころの目で。
裁かず、聴くこころの耳で。
幻想は、幻想に葬ってもらいなさい。
ただ、まっすく、ただ正直にみつめているだけで、幻想から力が離れていく。
そして、 幻想に、導いてもらうことをやめ、愛に導いてもらうことにする。
「
存在するように見えるが、実は存在していないこの世界の中で生きるための、 一つの生き方がある。あなたの外見は変わることはないが、あなたはもっとたびたび微笑むようになる。あなたの額は穏やかで、瞳は静かである。
」(wb:l155-1)
愛に導かれる、あるがままのその流れに、一切の咎め、裁き、判断なく、生かされていく。 活かされていく。
「 幻想に真理を先導させるのは狂気である 」(wbl155;2-5)
そう、これまでは「罪悪感」という幻想が先導してきたのだ。
だから、いつも結果は、恐れを受け取ることになる。
選ぶ力があなたにはすでに思い出されている。
いま、ここで「恐れ」という間違いを取り消し、手放そう。
内なる自己――聖霊――が、愛に取り換えてくれる。
「
犠牲や窮乏を速やかに後にするので、あらゆる種類の損失から逃れられる
」(wbl155:5-1)
手放すことは、我慢や犠牲を伴わない。
ただ、結んでいたものをひらくことだ。
結んで、開いて、手をうって、結んで、また開いて、手をうって、その手を、上に。
そう、明け渡して、降参することだ。
みこころ――愛――に。
「
これからは、この道を安全に、しかし慎重に歩きなさい。あなたはまだこの道では初心者だからである。あなたは今後も真理の前を歩いて、幻想を導き手としてくなる誘惑にかられるかもしれない
」(wbl155;9)
恐れを導き手にすれば、ゴールは恐れだ。 愛を導き手にすれば、ゴールは愛になる。
でも、これまでずっと人生は苦だと信じ続けてきたその習慣に戻ろうとする、
それが習慣がゆえに。
新しい習慣は、愛から始まる。
それは「恐れ」のような後天的な習慣でなく、天賦の才能だ。
ういういしく、愛からはじめよう、そして、手垢にまみれた愛情ではなく、それが慈悲でることをこころから喜ぼう。 慈悲は、すべてを受け止めてくれる、どんなきれいなものも、どんな醜いものも、わけへだてもなく、すべてをつつみこんでくれる。
暗黒に戻ろうとするそれも、また愛に包まれている。
「
奇跡は心を満ち足りた状態に戻る。欠乏を贖うことにより、奇跡は完璧な保護を確立する。霊の強さは侵入の余地を残さない。
」
(T1:Ⅰ34)
日々あらたに、毎日が、祝祭。
これまでの人生と呼んでいたものはぜ~んぶ、夢物語。 夢から目覚めたら、そこには・・・。 そんなきづきが、日々深まっている奇蹟の毎日に贈ることばを綴っています。
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