「
或る人々は、「あの人は何の話をしたのか」、「どんな話し方をしたのか」と訊くであろう。しかし、わたしの話した事柄やわたしの話し方をあなたたちは説明できるだろうか?真理は説明しうるであろうか。そもそも説明しうるものは真理ではないのである。あなたたちがわたしの話を傾聴するにつれてあなたたちは真理を実感するのである。傾聴する者にだけ真理は啓示されうるのである。あなたたちはわたしを実感し、わたしを知るだろう。 『わたしは真理である――I am that I am――』からである(心身の神癒Ⅵ107)
」
咎めず、裁かず、訊く。
価値判断なく、訊く。
静かに、穏やかに、冷静に、訊く。
微笑んで深刻にならず、訊く。
こころの耳で訊く。
一の声――インスピレーション――のままに。 黎明のとき、無垢な声が降りてくる。
静謐のなかから、聴こえてくる、一の声。
その声にはなんの分離もなく、恐れもなく、啓明だ。 明けの明星。
一の声に反応することなく、一の声そのものにまかせなさい。
それを解釈してきた二の声には、まかせることがわからない。
だからどうしてまかせたらいいのか、聖霊に尋ねなさい。
「
一の声――インスピレーション――は御霊からくる一種の力である。それは独自のチャネル(経路)を通じて自己を表現するのであるが、その際、器(となる媒体)の特殊の性質に応じてその型に嵌め(はめ)直される場合(フィルターが再解釈する場合)がしばしばある。(しかし、あなたたちの面前で)今この瞬間に起きつつあるような霊的本源から(直接来る純粋な形の天啓――インスピレーション――もある。 この場合、天啓は、内界に宿る霊的力すなわち真我に意識が使用している器(媒体)の内なる意識を通じて顕れているのである。この方法は、場合によっては聖書に出てくる予言者たちによって行われることもあるが、普段は名乗ることはめったにない(心身の神癒Ⅶ6)。
一の声は赦された――聖霊(ハイヤーセルフ)――のことばだ。
だからそこには脅しはない。
押し付けがましさがない。
恩着せがましたもない。
咎め、裁きがない。
価値判断がない。
待つものでもない。
特別さはなにもない。
透き通っている。
深刻さがなく、気楽さに包まれている。
という、判断もない。
それが来た時、理由なく、説明もなく、わかろうとしなくても、瞬時にそれだとわかる。
二の声は、戯我の声だ。
いつも、なにかで曇っている。
脅しがある。
押しつけがましい。
恩着せがましい。
咎め、裁いている。
決めつけがある。
あなただけの特別なものだ。
深刻で、重々しい。
という価値判断に背く。
頼ってきたことがいま、変わろうとしている。
日々あらたに、毎日が、祝祭。
これまでの人生と呼んでいたものはぜ~んぶ、夢物語。 夢から目覚めたら、そこには・・・。 そんなきづきが、日々深まっている奇蹟の毎日に贈ることばを綴っています。
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