聖戦。

これで、最後にしとくからって、古い習慣って繰り返されることってないですか?

そして、古い習慣は、すぱっとやめられなく、こっそり続いていきます。

最後の審判。

なんてうわべでいっていても、それは最後にならない。

偽我のたわごと。

口はあるが、語ろうことは絶えてなく、目はあっても見ることはできない。

耳はあっても訊くことはできず、その中には生命の息ひとつもない。


もう、誤魔化せない、誤魔化さない。 

明け渡し、おおいなる力の根源に、ゆだねること。 

本領発揮にまかせていくこと。 

まかせたつもりで、偽我だけできめてきた日々・・・。 

真の自己に目覚めるとき、もう、誤魔化しがきかなくなっている、 

偽我は、消えることを恐れて、咎め、裁きをしつづけてきたんだ。 

最初は見えるなにか、すべて、そして無意識の見えないなにかに。 

原初の咎め、裁きを再生しつづける。 

これが、輪廻転生のもとなんだ。 

そして、ゆだねたつもりで、こっそり偽我だけで決めて、後でおおいなる力の根源に決めてもらうふりをする。何も変わらない。

 スクリーンに映し出される映像は、輪廻転生を繰り返し、あれ、選びなおしたのにと実際は、「罪」「恐れ」「罪悪感」のループにはまりつづける。 

もう、私は何もしらないし、何もできない、という無条件降伏は、聖なる敗北宣言だ。

偽我はそれでさえ、敗北を咎め、怒る。 

そうして、最後の最後まで生き残ろうとする、諦めは敗北だとね。  

それで見せかけは、多少変わったように見えても、それは、詐欺まがいの魔術だ。

見せかけのトリックに惑わされて、恐れの輪廻にかえろうとする、古い、習慣。  

もう誤魔化せない、誤魔化さない。  

苦しむことは、終わりなんだ。

苦しむことで、罪は赦されるのでなく、苦しむことで、罪が再生しつづけていきたんだ。  

見事に、負ける、ということ。 本当は、勝負なんてないんだ。 

勝っただ、負けただと一喜一憂していたのは、偽我だったんだ。 

すべてをわかっている、大いなる力の根源にすべてを明け渡し、すべてを決めてもらい、すべてを受け取ること。


 無智なるものは命なきものを崇拝め、賢明なるものは神の中に生きる。 たとえ、偶像が象徴として維持されているにせよ、意識は象徴の背後にあるものに気づかねばならない。何も知らずに偶像を拝むのは無益である。父の中に生きること、父は自分のなかに生きてい給うことを知ることが本当の崇拝である(心身の神癒Ⅺ)。 


 「今この瞬間に、ただ自分の内にある源を見いだしなさい」  


そして、本領発揮していくことに意識をただあわせなさい。 


新しい習慣は繰り返し、定着していく。だから何度も、何度も自動化していくまで繰り返そう。

それが、ほんとうの諦めないということだ。

諦めないというのは、為して、忘れることだ。

一瞬為して、一瞬に忘れる。

飛ぶ鳥、後を濁さず。


時が来れば、あなたは行動しなければならない。あなたのダルマ(定められた義務・役割)が何であれ、「源」を忘れてはならない。瞑想しようと、仕事をしようと、源は同じだ。いつであれ源に気づいていて、源に指示を仰ぎなさい。それが、なすべきことをあなたにさせる。  源に気づいて、それが命ずるままに行為すれば、何の問題も起こらない。高次の力があなたに命じている。それを受け入れ、その通りに行為が起こるのを許せば、自ら行為をすることなどなくなる。あなたはただ、高次の力が命じることをするだけだ。  起こるべきことは起こるだろう。行為すべきか、無為にとどまるかを決めたところで、物事の流れを変えることはできない。その選択はあなたの手の内にないのだ。  世界のためにできる最高の奉仕は、「あなた自身」(源)を知ることだ。それで十分だ。あなたがどこにいようと、世界はその恩恵を受けるだろう(プンジャジ)。 


思う存分、愛と赦しから、本領発揮を愉しんでいきなさい。


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日々あらたに、毎日が、祝祭。

これまでの人生と呼んでいたものはぜ~んぶ、夢物語。 夢から目覚めたら、そこには・・・。 そんなきづきが、日々深まっている奇蹟の毎日に贈ることばを綴っています。