まにあうように、なっている。
まにあうように、なっていく。
ある禅師のことばだ。
心配するな、大丈夫、なんとかなる。
これもある禅師のことばだ。
老子の「無為自然」というコンセプト、為さずとも、自然にそう為る。
老子は、この世の中の逆説性をみごとに81のことばにして魅せた。
老子、釈迦、キリスト、個々の存在のように見えるけど、それは普遍な誰のこころのなかにも息づきつづける存在だ。
浮世にまみれていれば、いつもものごとの限界をみることになる。浮世が恐れに根差して展開されているからだ。新聞をみてみよう、それがすぐに実証される。
よろこびに満ちているという感覚よりも、すべては恐れと、恐れのシンボルであるお金にまつわる記事で溢れている。
ひとはうまれてからいろんな人と接して、いろんな人の考えに触れて、それを鵜呑みにしながら「これが人生だ」という信じ込みを形成していく。そしてその信じ込みの通りの人生を見るからその信じ込みはさらに強固のものになる。
自分は信じるに値するという信じ込みが形成されると、人は信じるに値するという映像となって生活にあらわれていくし、人生は、戦々恐々戦って勝ち取るこのだという信じ込みは、防壁をつくることでさらなる未知の恐怖を創造していく。
人はそうしていろんな信じ込みという色眼鏡をとっかえひっかえして、物語を紡いでいく。
ある日、その物語を空の雲を見るような軽やかさで、映画のスクリーンを見るような穏やかさで、観照していると、いつの日か、観照者はいなくなり、ただ、観照のみになる。
その観照にまかせていきていく、気楽さ。
咎めず、裁かず、観る。
価値判断を持たず、観る。
静かに、穏やかに、冷静に見る。
微笑みつつ、深刻にならず、観る。
このきづきの意識でこの人生とそしてこの世界とかかわっていく。
咎めず、裁かず、聴く。
価値判断を持たず、聴く。
静かに、穏やかに、冷静に訊く。
微笑みつつ、深刻にならず、傾聴する。
すると、問題は答えなのだと直観が起こってくる。
問題を意識するだけど、答えは自然に立ち上がってくる。そしてそのこたえととも人生が、自然に展開していく。
無理やり為したことはその反動が起こる。無理やり為さずとも、自然に為っていく在り方に漂っていると、何かが満ちてくる。
愛が満ちてくる。
光が満ちてくる。
そしてさらなる歓びが立ち上がってくる。
あなたに、あなたのなかには正真正銘のあなたが在る。
その正真正銘のあなたと、あなたが、ともにその無限力をわかちあいながら、この夢である人生をこころから愉しむ。
幻想とわかりつつ、その幻想に巻き込まれず、きづきに包み込む在り方でこの人生は、そしてこの世界は輝いていく。本来のすがたになっていく。
日々あらたに、毎日が、祝祭。
これまでの人生と呼んでいたものはぜ~んぶ、夢物語。 夢から目覚めたら、そこには・・・。 そんなきづきが、日々深まっている奇蹟の毎日に贈ることばを綴っています。
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