その問題が起こった場所(外)では、その問題は解決しない。
これは、よく映画のスクリーンと映写機の例に例えられ、映しだれた映像をいくら隠したり、変更しようとしてもそれはいつまでも変わらず、映写機のコンテンツを取り消せば、それは変わる。
その映写源は内にある。
だから内を変えるのだと頭では、わかったつもりを装いながら、実際は、答えを外に探しにでていく。それは、図書館やインターネットなど物理的な外もあるけど、実は頭のなかの思考も、外なのだ。 頭の中の思考は、問題に対する問題そのものでなく、問題への反応がほとんどでそれは過去の記憶を参照しているので、問題がいったん解決されそうになっても、さらなる問題を作り出したりする。日本の国家のプライマリーバランスをとるという目標はいつまでも先延ばしになり、予算は増え続けたり、病気を治ったように思えても、生活のどこかで歪みがでていたり・・・。もとからたたなきゃダメだのだ(笑)。
対処療法を超えて、原因療法へ。
そのために、「きづき」は大きな役割を果たす。
夢を果たすために、会社をつくる、夢が朽ちて、会社をたたむ。 この会社というのも、外の偶像だ。夢を果たすために事業とか会社はその方便にすぎない。
夢の究極って何だろう。
それは「しあわせ」である。
誰もがしあわせのために生きている。
誰もがそれぞれの可能性を開花させ輝くために生きていく。
しかし、その確信がないうちは、いつかこのしあわせも終わるのではないのかという恐れからすべては動くことになる。そして、恐れから離れるために偽の安心の象徴である会社という偶像を作り出す。しかし、その源には恐れがあるから、安心の象徴であった会社は恐れの象徴になり、ことあるごとに賞罰委員会がたちあがる。
そして、罰を避けて、賞を追い求めるラットレースがはじまる。 世の中は、競争社会だ。競争をするから進化があるのだ・・・という観念から、進化したように見えても、実際は進化していない。幸福にちかづいたように見えても、恐怖が増大していく。 自分の外を探すのはやめなさい。それは失敗し、偶像が崩れるたびにあなたは涙を流すことになるからである。天国が存在しないところに天国はみつからず、そこ以外に平安はあり得ない。 幸せがどこに宿っているかを教えられているかを喜び、それ以外の場所をこれ以上探すにはやめなさい。さもなければあなたは失敗することになる。しかし、あなたには真理を知り、自分の外に真理を探さずにいる力を与えられている。・・中略・・この世界の偶像のすべては、内なる真理をあなたに知らせずにおくために作り出された。またそれは、完全で幸福であるためには自分の外にあるものを見つけなければならないという夢に対する忠誠を、維持するためでもあった。平安を期待して偶像を崇拝しても無駄である。神は内側に宿り、あなたの完成は神の中にある。いかなる偶像も神に取って代わることはできない。偶像に頼ってはならない。あなた自身の外を探してはならない。『奇跡講座第29章Ⅶ』より
偶像崇拝は、ブランド崇拝でもある、高級ブランドで身を固めていくのも自分をみんなからよくみられたいという虚栄からだ。虚しさがさらなる買い物で虚しさを塗り固める。 それは、偶像で、偶像の本質は「虚無」だ。消えてなくなるものに一時的な満足はあっても真の満足はない。そのからくりから目覚め、ほんとうのしあわせの源をうちにもとめると、すべてが満ちていることにきづく瞬間が訪れる。それは、みらいとかかこにはなく、いまにある。いま、この瞬間起こっていることを思考の虫眼鏡による裁きや価値判断をとおさず、そのまま感じつくす。いまここという観念ではなく、いまここそのものを感じる。穏やかなじわりじわりというしあわせがいまここに確かに在ることを実感する。 新たな偶像は、もういらない。 そして、新しい人生がはじまる。 新しい人生は、固定観念という制限に満ちた過去参照はまったくなく、聖なる瞬間という永遠だけがある。だから未来も参照した過去の再現でなく、まっさらなキャンバスだ。このキャンバスへどんな夢が描かれていくのだろう。恐怖が投影した虚像世界が去り、愛に立脚した実相が顕れてくる。 実相世界も依然として一つの夢にすぎない。ただし、登場する人影たちは変わっている。彼らは裏切りをする偶像として見られていない。その夢の中では、誰も、何か別なものの代わりに用いられることはなく、心が抱く想念と心が見るものとの間に挿入されることもない。誰も、自分ではない何かのものとして用いられることはない、子どもじみたものは全て片付けらえているからである。そして、かつては裁きの夢であったものが、今やすべてが喜びである夢へと変化した。それがその夢のもっている目的からである。時間はほとんど終わっているので、ここに入ってこられるのは、赦しの夢だけである。そして、夢のなかに入ってくる形態は今や、裁きでなく、愛の中で兄弟として知覚される。・・中略・・ どんな形であれあなたが恐れを感じているとき――そして、もし、深い満足と助けに対する確信と天国が自分とともにあるという穏やかな安心を感じていないとしたらあなたは確かに恐れているのであるが――そのとき、自分が偶像を作り出し、それが自分を裏切るだろうと信じていると確信してもよい。赦しの夢があなたの思い出させるのは、あなたが安全の中で生きており、自分自身を攻撃したことはないということである。したがって、あなたの子どもじみた恐怖は溶け去り、夢はあなたが偶像を崇拝して攻撃を続けるための再度の試みではなく、新しい出発をしたというしるしとなる。 赦しの夢は夢の中に現れるすべての人影に対して親切である。それゆえに、赦しの夢は、夢を見る者に恐れの夢からの完全な解放をもたらす。彼は自分の裁きを恐れない。なぜなら、彼は誰も裁かなかったからであり、裁きが必ず必ず課すことになるものから。裁きによって解放されようとしなかったからである。そして、そのあいだずっと、裁きのもたらす罰から自分を救う方法が、裁きそのものであるように見えていたときには忘れさられていたものを、彼は思い出している。『奇跡講座第29Ⅺ』より
奇跡講座は、これまで信じてきた思考体系がすべてさかさまになるために、最初は戸惑うし、抵抗も起こっている。これまでの常識が非常識になり、非常識が常識になるためだ。地動説から天動説にシフトしたときのように。いま起こっている中での解釈も色眼鏡による曲解の可能性もあるし・・・。最近感じ始めていることは、真の意味でこれまでの自己イメージを手放し、本来の自己イメージを受け入れるということは、おおいなるなにかにすべてを明け渡す覚悟が必要だ。覚悟は目覚めて悟ると書くけど、魂のレンズ磨きという表現を在るお方は使った。毎日のいろんな出来事は、魂のレンズを磨くための宝物だ。日々を丁寧に観照しながらくらしていくことに、ほんとうのしあわせはあるのかもしれない。
日々あらたに、毎日が、祝祭。
これまでの人生と呼んでいたものはぜ~んぶ、夢物語。 夢から目覚めたら、そこには・・・。 そんなきづきが、日々深まっている奇蹟の毎日に贈ることばを綴っています。
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