世界は、自らの内面の鏡だ。
そして、鏡のなかにありながら、鏡に属さない、奇跡。
鏡よ鏡よ鏡さん、この世を至福でみたしておくれ(笑)。
鏡よ鏡よ鏡さん、この世を赦しでみたしておくれ・・・。
鏡に同一化することなく、鏡をあるがままに、観る。
鏡に反応することなく、微笑みながら、観る。
すると、静寂がどこからともなく、やってきて静寂そのものにひたされていく・・・。
都会は、どこでもみせかけの元気さやみせかけの上品さを魅せながら、人を鏡のなかに誘っていく。そして、なにかが去勢されていく。
いま、去勢された何かにきづくとき、それは蘇ってくる。
深い、深い、深層意識で何かが整ったとき、目覚めは自然に起きてくる。
だから、何も為そうとする必要はない、新たな鏡のなかの登場人物やそのシナリオはすでもすべて用意されているからね。
昨日まで、奇跡講座を読み進めてきて、奇跡講座が面白いのは、読んでいることと、日常経験することがリンクしていくということだ。このインスピレーションの源泉は、普遍だ。
神とか、精霊とか、赦しとか、これらの言葉と固定観念で捉えると本質を見失うことになる。
言葉に囚われず、こころの目で読んでいくと、その本質がひびいてくる。
今日、いつもお世話になっている歯医者さんと再会した。
どこからか、いままでの愛情をすべて受け取りなさい・・・というささやきが聴こえてきて、両手が上向きになった。すると歯医者さんは気さくに、いま起こっているからだとの対話をことこまかに、説明してくれる。過去のいろんなことが内側でいま完了していく。なにもやっていないのに、やりきった感が溢れてくる。
完全性の知覚というのはこういうことか。
人生は、完璧、すべては整い、間に合うようになっている。
何日か前にブログで書いたこともまたここで再生されている。
内面の本当の自己と親しくつきあいはじめると、毎日に恩寵がおとずれづつける。
さあ、いまいまあらたに。
J ・クリシュナムルティは一昔前の内面世界の巨星だったお方だが、いまこの世の中でもそのメッセージは新鮮だ。
「
湖
その湖は深く、両面に崖が高くそびえ立っていた。
対岸には新緑に覆われた森が見え、湖のその側はいっそう急峻で、木の葉の緑はさらに濃く、茂みは深かった。 その朝、水は深く澄みわたり、青緑色を呈していた。それは美しい湖で、白鳥や家鴨が住み、ときたま人を乗せたボードが通ることもあった。
よく手入れされた公園の中にあるその岸辺に立つと、水面がすぐ目の前にある。それはまったく汚染されておらず、そのなめらかな感触と美しさがあなたの中にしみこんでくるかのようだった。あなたはその匂いを、その柔らなかぐわしい空気、緑の芝生の匂いをかぐことができ、それと共に、水のゆったりとした動き、反射、その深い静けさを感じ取った。
奇妙なことは、あなたが何の、誰のためにというものでもなしに、そのようなすばらしい愛情の感覚、愛と呼ばれるものの充満を感じることである。重要な唯一のことは、その深みそのものを探ること、終わることのない思考のつぶやきに満ちた浅薄でちっぽけな精神とともにでなく、沈黙――静寂――と共にそうすることである。
沈黙はあまりにも汚染された精神から自由なものに貫通することができる唯一の手段、道具である。
私たちは愛が何であるかを知らない。私たちはその歪められた兆候は知っている。それは快楽、苦痛、恐怖、心配等々である。私たちはそれを解決しようと努めるが、その闇のなかを彷徨うことになる。 私たちはこのことに昼も夜も費やし、それはほどなく死を迎えることによって終わる。 あなたが岸辺に立って水の美しさを見つめているときのように、もし静かに愛と呼ばれるこのものに自らをひたすことができるなら、人間のあらゆる問題と制度、人の人に対する関係――それが社会なのだが――は、すべて正しい位置を見つけ出すことだろう。 私たちはそれについて多くのことを話し合ってきた。若者は皆、誰か女性を愛していると、司祭は彼の神を、母親はわが子を愛していると言い、政治家たちはもとよりその言葉をもてあそんでいる。私たちは本当に言葉を台無しにしてしまい、それに無意味な内容――私たちの狭く小さな自己の内実――を負わせている。この狭くてちっぽけな文脈のなかで、私たちは愛を見つけようとし、それは私たちの日常の混乱と惨めさに苦痛に満ちたものとして跳ね返ってくる。
しかし、それはそこに、水面にある。あなたのまわりのすべてに、木々の葉の中に、パンの大きな欠片を飲み込もうとしている家鴨の中に、今通り過ぎた脚を引きずる女性の中にある。それはロマンチックな自己同一化や、小利口な言語による合理化の中にはない。それはそこにある。あの車やあのボートと同じように現実的なものとして。 それが私たちすべての問題に答を与えてくれるであろう唯一のものである。いや答ではない。とういうのも、そのときそこに問題はなくなっているからである。
私たちはあらゆる種類の問題を抱え、それを愛なしに解決しようと努めている。だからこそ、それは増殖し、拡大するのである。それにアプローチする、あるいはそれを保持する方法はない。しかし、時折、私たちが道端に湖のそばに立って、花や木を見たり、農夫が土を耕すのを見れば、そしてあなたが静まっていて、夢想しておらず、白昼夢にふけっていたり、疲れたりせず、強烈さをもって沈黙に留まっているなら、そのときたぶんそれはあなたのもとにやってくるだろう。
それがやってきたとき、そえにしがみついてはならない。それを経験として有り難がってはならない。ひとたびそれがあなたに触れるや、あなたは再び同じことになることは決してない。それがそれ自身として、働くのに任せなさい。
あなたの貪欲さ、あなたの怒り、社会へのあなたの正当な憤りではなく、それは真に野生的なもので、飼い馴らされることなく、その美しさはお上品なものでは全くない。
しかし、私たちはそれを決して欲しない。それは危険すぎると感じているからである。私たちは飼い馴らされた動物であって、自分のためにつくったゲージの中で――その論争、いさかい、そのどうしようもない政治的指導者、私たちの自己欺瞞と彼ら自身のそれを洗練された、または粗野なやり方で不当に利用するグルたちと共に――反抗するのである。そのゲージの中で、あなたは無政府状態をもつことができようが、それはいずれ無秩序に取って代わられることになる。そしてこれが何世紀にもわたって続いてきたことなのである。社会構造を転覆させ、揺り戻し、そのパターンを変え、そこここで貧困を終わらせるという・・・。しかし。もしあなたがこれらすべてを最重要なものとみなすなら、そのときあなたはほかのもの=愛を見失うことになるのである。時々はひとりになりなさい。そしてもしもあなたが幸運なら、それはあなたのもとにやってくるかも知れない。落ち葉の上から、あるいは何もない野原にひっそりと立つ遠くに木から。 『生と出逢う』J・クリシュナムルティより
」
今週末は、百合が咲く。
相方さんが飾ってくれた。
みんなみんなありがとう、ひごとすべてがよくなっていく、こんなにすこやかありがとう。
そして、明日からまたあらたに、鏡は祝福されていく・・・。
日々あらたに、毎日が、祝祭。
これまでの人生と呼んでいたものはぜ~んぶ、夢物語。 夢から目覚めたら、そこには・・・。 そんなきづきが、日々深まっている奇蹟の毎日に贈ることばを綴っています。
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