いったりきたり、おおいなる流れのなかで、わたしは消えていく。
おおいなる流れのなかに、「わたし」は輝いていく。 流れとともにあれば、いつも「わたし」にはすべてが在る。
流れには、分離はない。
流れには、すべてが在る。
そして、わたしが、観照者から観照そのものに在るときに、偽物――恐怖、嫌悪、不満、欺瞞――は自ずと見極められ、そこには本物の愛だけがある。
そして、「わたし」は奇跡の道を祓い清め、歩き始める。
奇跡の道は道なき道だ。
そのまかで「わたし」は、いまでも「わたし」を愛している。
そののなかで、「わたし」は罪なき道を歩みはじめる。
生老病死、悪戦苦闘、これら、すべては、幻想だ。
頭脳のこしらえる、この幻想と戦わずして、勝つ、そこには敗者も勝者も、誰もいない。
そこには祝福のみがある。
今まで学んできたすべてを忘れなさい。
その兵法をすべて捨てて流れに任せなさい。
必要な物事はそのときどきで自然に顕れるだろう。
今、何も見えないからといって、心配する必要はなにもない、それは虚空のなかから確かさをもって顕れるから、喜んで受け取るだけでよい。
心配もまた、幻想であり、安心もまた幻想だ。
そこには一喜一憂がある。
いまこの瞬間には、一喜一憂はない。
ただ、流れの歓喜のみが、ここにはある。
ひちびとは、物語で真に生きることはできない、
真人生を支えるものは、実相というビジョンだ。
実相は、すべてをつつみこんでいる。
実相は、すべてを見守っている。
実相のなかから森羅万象、すべてが創られていく。
日々と暮らしがいまどんなことであっても、慈しみ、丁寧に、慎ましく在りなさい。
これもまた過ぎ去る。
そしてまた、これも過ぎ去る。
そしてまた、これもまた過ぎ去る。
そして実相――至福――のみがそれを支えていることに目覚める。
大丈夫、すべては間にあうように、なっている。
日々あらたに、毎日が、祝祭。
これまでの人生と呼んでいたものはぜ~んぶ、夢物語。 夢から目覚めたら、そこには・・・。 そんなきづきが、日々深まっている奇蹟の毎日に贈ることばを綴っています。
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