サヌキ、に起こった、あたらしい農とあたらしい人生。

  「 あなたは、愛について書く。しかし、それは(愛についての観念や物語であって)愛(そのもの)ではない。あなたは愛について語る。しかし、果たしてそれが愛だろうか。あなたは人々が愛について語るのを聞く。しかし、彼らにおよそ愛と称するものがあるかどうか、よく見るがよい。本当に愛があるなら、決してそれを口(言葉)にはしないものだ。愛は買うことも売ることもできない。愛は時間を超越する。時間に属するもののみが買うことも売ることもできるのである。それがわれわれの葛藤、われわれの苦悩が増える原因である。思考が問題をつくり、その問題を思考が解決しようとする。しかし、それは不可能だ。なぜなら、そこには愛がないからである。思考がもはや問題を解決する必要がなくなったとき、そこには愛が在る。そして、愛のみが問題を解決し得るのである。思考が働いているとき、ハートには愛がないことに、あなたはきづくであろう。しかり、思考が働くと、そこはハートを思考のもめごと時間でいっぱいしてしまう。しかし、愛は時間に属するものでない。それは時間の属するものが沈黙したときに、発露する。 問題が思考の産物であることをがわかれば、問題を解決するには、思考は方法だけは新しくとも、その背景――旧態依然たるもの――を形成するのをやめなければならない。(古い記憶に還ることをやめて古い記憶に拘ることもやめて手放し)その時始めて、愛が出現する。愛が出現するのは、そのあとではない。そして、愛によってわれわれの問題はすべて解決されるのである。 もしあなたが、いかにして「個」を愛することを知らなければ、あなたが世界を愛するといったところで、それは無意味である。あなたが個を真に愛し始めて、それは意味を持つものであり、そのような愛において初めて、あなたがいかにして全体を愛するか知るのである。他に対するわれわれの愛が偽り(偽善)であるのは、一人の愛し方を知らないからである。なぜならば、真に一人を愛するとき、われわれのすべての問題の解決がそこにはある。その時、われわれはイエスが「己自身のごとくに汝の隣人を愛せよ」と言われた理由がわかるであろう。なぜなら、ここにわれわれの真に幸福(しあわせ)があるからである。『キリストのヨーガ』 」  


そして、サヌキは、蓼科から離れ、東京に移り、「マーケティング」を深め、「ビジネスチャンス」を探り、「ビジネスモデル」を構築して、IT事業、メディア事業など10年ぐらいは「トライアンドエラー」を繰り返しながら、起業を繰り返しました。

一生懸命働いているのに、もっともっととなっていくけど、何も満ちていない、褒められているのにうれしくない。すべてがうわべだけで流れているような虚しさがそこにはありました。

そして、源に還る。 

いのちの営みを慈しむこと、微生物たちがひびきあう発酵の世界にあるような気がしていました。

そして、手前みそを作ってみたり、乳酸菌などの醸し水をつくったり、微生物たちとの対話がはじまりました。人的に対話は言葉でするけど、微生物との対話は、感じること、傾聴に近いですね。

見つめて感じること、するとさらに元気になっていきます。もしかしてこれをことばにすれば愛といえるのかもしれません。 

そして、その微生物は、身体の周りにも、身体の裡にも、空気中にも、真空中にもそこらじゅうにいきいきといきています。発酵食を食べる習慣がはじまり、臭い軟便が変わり、腸内も元気になり、うんちもすっぱい香りの微生物の集合体になっていきました。  ご縁つながりで身体の外の発酵の世界にも入っていくことにもなりました。

土壌の発酵です。自然栽培(無施肥無防除栽培・微生物栽培)、炭素循環農法、エコファーム、循環型農法、ヤマカワプログラム、バイオダイナミック農法、ありがとう農法、植物ホルモン、エンドファイト・・・さまざまな微生物農法にかかわっていきました。

まずは、神奈川、石川、茨城、千葉、地元静岡、北海道、沖縄と、たくさんの畑観照をしていきました。 ここはまさにダイバシティの世界、地域地域で菌のようすも違うし、何も標準化できない世界でした。この活動を深めていくなかで、「緑の革命」っていうことばもはじめて知りました。  

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 緑の革命(みどりのかくめい、Green Revolution)とは、1940年代から1960年代にかけて、高収量品種の導入や化学肥料の大量投入などにより穀物の生産性が向上し、穀物の大量増産を達成したことである。農業革命の1つとされる場合もある。 ロックフェラー財団は、1944年結成のノーマン・ボーローグらの研究グループ[(1963年に国際トウモロコシ・コムギ改良センターに改組)と1960年設立の国際稲研究所に資金を提供し、緑の革命を主導した。

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あっそうか、30年前に体験したあの農業は、この緑の革命の流れだったんだなあと思いました。合理化、効率化を追求していく思考の農業ですね。これと同時に産業革命が地球規模で進んでいって、大量生産大量消費世界となっていきました。その結果、地球が気象変動など起こしながら、「このままじゃつづけられん」という地球の声を感じて、地球本来の持続可能な循環型農業や循環型産業がはじまったようです。

今では、第二次の緑の革命といわれているのでしょうか?有機農業は、高コスト、高リスクということもあり、なかなか普及していかないということもわかってきました。 

そのしめくくりは、人工知能によるAI栽培でした。職人芸(暗在系)を見える化(明在系)にシフトしていくとりくみです。職人芸が廃れていくという見方と、職人に閉ざされていった智慧をオープンにしてわかちあっていくという見方流れは、オープンで生成発展です。これで、高コスト、高リスクというデメリットが軽減されるヒントになるかもしれないと、思いました。ひとができることはひとに、機械ができることは機械に、路地でできることは路地で、ハウスでできることはハウスで、何事も、かたよりすぎず、温故知新。 


 この流れで出会った、ある農家さんの話です。 その農家さんは、30年前から有機たい肥農業をはじめ、数年前その限界を感じ、炭素循環農法に転向しました。

炭素循環農業は、無施肥、無防除の自然栽培のまたひとつのかたちです。そこにある土壌微生物を活かして、野菜を育てるのではなく、野菜が育つ環境を整えることで、従来より元気で多くの野菜が結果できる、という農の法則です。この法則によると、人がやることは環境さえ整えば、種を撒き、収穫するだけという楽な農業になり、一般的な農イメージ=きつい、きたない、きけん、もうからないという4重苦を一新します。 

その農家さんは、まず、微生物が働きやすい環境づくりということで、畑の水はけをよくするため、畑に溝を掘り、雨が降っても水が流れやすいような水路をつくりました。そして、その水路に、微生物のエサである炭素資材である、竹や竹チップ、剪定した枝などを放り込みました。畑には、違う炭素資材である、燕麦をきざんでふりかけ、浅く耕すを続けました。繰り返すこと6年、やれどやれど、収穫量、品質とも納得できる野菜は、できない。希望は絶望にかわり、畑の雰囲気も暗たんな感じになっていったようです。話だけ聞いていた、サヌキは、その農家さんの畑を実際見せてもらおうと訪問の約束したけど、行ってみたら「いない」。野次馬のような感じで、招かれざる客になっていました。対話でなにかお互い活路が見いだせればいいなという感じで行ったのですが、茶化しにこられたようにも感じておられたそうです。畑を見せてもらってサヌキが感じたことは、「実際は野菜はできていないけど、なんか苦しい感じもするけど、きらきらした野菜が一瞬、観えました」だから「根拠ないですけど、その苦労報われますよ」「たくさん売ることを考え始めたほうがいいですか」なんて言っていました。

農家さんは、キツネにつままれた感じの???だったと思います。 人生の変転でもそうですが、夜明け前が一番暗い、絶望も絶望しきれば、希望に転じる、一陽来復。『奇跡のリンゴ』で一躍有名になった木村さんも、すべての手を尽くしきって、絶望し、自殺をしようとしたときに、手を尽くし切ったことが邪魔していたことに気づき、自然のしくみにほったらかし、で大丈夫なんだということにひらめき、陽転したそうです。半年後、その畑は、別畑のように、キラキラ輝いていました。 豊穣そのもので、売りきれないほど、できていました。 炭素循環農法という「知識」で農業をするのでなく、微生物との対話という「感性」で農業をするっていえば、そうなんだろうけど、それも思考。 思考のレベルからは問題は一掃されません、その思考が問題をつくったからです。 収穫量も、品質も、畑のせいでなく、有機農業の常識から転向しきれず、頭はむかしのまますで転向がすんでいなかったこと、過去の成功体験に執着していくこと、何十年もやってきたことだから、それをすべて空っぽにはでできない、ことからくる苦闘だったようです。

  

これは畑を題材にした人生そのもの。 

学んできたことを、すべて忘れる、という勇気だけが、活路を見い出すという逆説的な・・・。 

過去の蓄積を手放せない執着が、絶望という状況をつくりだし、降参することで、あたらしくなるということ。


昨年末、「いのちのいとなみとビジネスをつなげる」というこの流れに節目が訪れました。

サヌキは、その畑を、新しい販売ルートにつなげ、「やり切った」という感じがありました。 やり切ったら、以後出しゃばると、悪戦苦闘サイクルに入るという感じがして、ここでささやかな勇気。やってきたこと(過去を一切)手放して、一歩下がる。この畑で起きたことと同じこと――流れにゆだねる――を自身もやることにしました。 自分ごとになると、どうしても、為すことがクローズアップするけど、空っぽになること。 それが無為自然。 


十分に受け入れることが、豊かさを意味します。 それに対して、豊かさを欲しがるのは、 決して十分にもつことがないことを意味しています。 真のリーダーシップは、仕事が終わったとき、 リーダーは一歩後ろへ下がって、 他の人たちに自分たちがそれをやったと思わせることです。 心の平和や静寂さへの道は、自分がやるべきだと思うことをやって、 それから一歩下がることです。 人々の承認を欲しがることは束縛を意味します。 

『人生を心から楽しむ』

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日々あらたに、毎日が、祝祭。

これまでの人生と呼んでいたものはぜ~んぶ、夢物語。 夢から目覚めたら、そこには・・・。 そんなきづきが、日々深まっている奇蹟の毎日に贈ることばを綴っています。