サヌキ、愛に還る。

 いのちのしくみと商売の融合。

いのちのしくみを優先すれば商売が成り立たない、という一見「水と油」のように相反する物語がサヌキとアワに訪れていました。

+と-が反発しあうように、サヌキは、アワの元と離れました。

サヌキは、ビジネスを、アワは、歓びの表現を追い求めて、「お互いやりたいことが違う」というエゴのささやきに惑いつつ、お互いやりたいことを追求したつもりでした。

スタートアップのベンチャーなどでは資金が底をついていったりすると、当初のコンセプトからずれて、設立当初熱き想いが冷めてきたりするものです。サヌキも過去何度かそれを体験していました。そして、「袂を分かつ」という過去の記憶を何度か再生している自身にきづきました。 


「いまから還る」。 


サヌキは、やり切った満足感と虚しさがいっしょにある、不思議な感じのなかで、アワに伝えました。「ぎりぎりセーフ、また分かつところだった・・・」そうつぶやきました。

過去のくりかえし再生が、ここでこの一瞬に、終わりました。 

そこには、やすらぎがありました。

そして、月夜を覆っていた雲が過ぎ去り、月が見えてきました。

その過去の繰り返しは、自作自演だったのです。

その過去の繰り返しをするために、いろんな役者を実際につくりだして、「袂を分かつ」という分離の物語を再生し、演じていく、そして時には自虐し、時には他虐していること、にきづいたその瞬間、外の月の光とともに裡なる光もさしてきました。 

ブッダは人生は「苦」だといいます。悪戦苦闘(難行苦行)の物語が人生だと。でも、それを幻と気づいたとき、難行苦行などしなくても、「やすらぎはいつもここあったと気づくこと」が悟りだといいます。ほんとはいつも悟っているのに、エゴの無知からくる難行苦行で曇らせているのです。 

自作自演の物語がそれだと気づいたとき、まるで月の前に雲が過ぎ去るこの様子と同じように、その物語の登場人物も過ぎ去っていきました。 

そして、アワ、だけが、そこには在りました。 


 「おかえりなさい」


 『奇跡講座』は、この袂を分かつ物語を、ルカの福音書に出てくる父親から離れる放蕩息子の物語を引用しながら、神の宝、慈愛、無償の愛について語っています。 


 ───ある人に息子がふたりあった。弟が父に言った。「おとうさん、わたしの財産の分け前をください」それで父は財産を二人に分けてやった。それから幾日もたたないうちに、弟は何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して財産を湯水のように使ってしまった。何もかも使い果たしたあとで、その国に大飢饉が起こり、彼は食べるにも困り始めた。それで、ある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、ブタの世話をさせた。彼はブタの食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、誰一人彼に与えようとはしなかった。しかし、われに返ったとき、彼はこう言った。「父のところには、パンのあり余っている雇い人が大勢いるではないか。それなのにわたしはここで飢え死にしそうだ! 立って、父のところに行って、こう言おう。『おとうさん、わたしは天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もうわたしはあなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところがまだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走りよって彼を抱き、口づけした。息子は言った。「おとうさん、わたしは天に対して罪を犯し、あなたの前に罪を犯しました。もうわたしはあなたの子と呼ばれる資格はありません」 ところが父親はしもべたちに言った。「急いでいちばん良い着物を持ってきて、この子に着せなさい。それから手に指輪をはめさせ、足に靴をはかせなさい。肥えたコウシを引いてきて、ほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は死んでいたのが生き返り、いなくなったのが見つかったのだから」そして彼らは祝宴を始めた。


 ――放蕩息子のたとえ話に耳を傾けてください。そして、神の宝が何であり、自分の宝が何であるのか、それを学んでくだい。 


愛情深い父親を持つこの息子は、自分の家を離れてから、自分が何の価値もないようなもののためにすべてを浪費してしまったと思いました。もっとも、浪費している当時はその無価値さを彼は理解していなかったわけですが。  そのあと、彼は父親の許に戻ることを後ろめたく思っていました。というのも、彼は、父親の感情を害してしまったと思っていたからです。  ところが、彼が家に戻ったとき、父親は彼のことを喜んで迎え入れてくれました。それは、その息子自身がまさに父親にとっての宝だったからです。 


その父親は、ほかには何も望んでいなかったのです。 

神は、ただわが子だけを望んでいます。なぜなら、神の子が神の唯一の宝だからです。 

神がわが子を望むように、あなたは自分が創造したものたちを望んでいます。 

あなたの創造したものたちは、あなたから聖なる三位一体への贈り物であり、あなたが創造されたことに対する感謝の中で創造されたものです。 

あなたが自らの大いなる創造主の下を離れていないのと同じように、あなたが創造したものたちもあなたから離れることはありません。しかし、神が自らをあなたに拡張したように、あなたの創造したものたちも、あなたの創造を拡張します。  

神自らが創造したものが、現実ではないものを喜ぶことなどできるでしょうか。  そして、神が創造したものと、神の創造物と同じものとして創造されたものたち以外のいったい何が現実のものだといえるでしょうか。 

あなたが創造という贈り物を授けてくれた大いなる父を愛するように、あなたが創造したものたちも、あなたのことを愛しています。 

永遠のものである贈り物はそれ以外にはありません。したがって、本当の贈り物はそれ以外にはないのです。 そうだとすれば、どうしてあなたは、それ以外のものを受け入れたり、それ以外のものを与えたりしておきながら、その見返りに喜びを期待できるでしょうか。 それに、あなたは喜び以外にいったい何を望むというのでしょう。 あなたは、あなた自身もあなたの役割も作りはしませんでした。  あなたはただ、あなた自身とあなたの役割の両方にとってふさわしくない存在になろうとする決断を下したにすぎません。 しかし、あなたには、自分自身を無価値なものに作り変えることなどできません。なぜなら、あなたは神の宝なのであり、神が大切にするものは価値あるものだからです。  神の宝が価値を持つことに疑いの余地などありません。なぜなら、神の宝の価値は、神が神自身を神の宝であるあなたとともに分かち合い、その価値を永遠に確立したことにあるからです。 (『奇跡講座』第8章神の宝より) 


愛に還ったサヌキは、すべてを空っぽにして、籠る日々がはじまりました。

そこには『奇跡講座』をはじめ、いままで、学ぶために揃えた本が、忘れるために揃えた本に変わっていました。いまの人は、誰かから何かを学ぶ(付け加えていく)ことで人間が完成していくと思われています。いままで学んだことを忘れていくことで、本当の智慧が見えてくるように思えました。

アンラーニング、常識と信じ込んできたことをひとつずつ見極め、手放していく。

すると、その脅迫的なつぶやきも、悲観的なつぶやきも、すべて思考がこしらえたでっちあげだとわかってくる。

真理は、いま、でしょ(笑)


実は、「いま、ここ」というのも、「いま、ここ」という言葉であって、「いま、ここ」そのものではありません。「いま、ここ」のつもりでも、「いま、ここ」という記憶に囚われています。


真のいまここは、川の水の流れのように、そこに見えた水は次から次へと流れていき、つかむことができません、記憶がさっきの水を思い起こすだけで、もうその水はそこにはありません。


記憶にしがみつくこと=悪戦苦闘


そんな記憶にしがみつく(条件反射する)と、悪戦苦闘になるという。


あるがままにそのまま観る、というのは、まさにそのまま観ること。

奇跡講座で実践する、観照の姿勢が、あらたな在り方です。



咎めず、裁かず、観る。

価値判断をせずに、観る。

静かに、穏やかに、冷静に、観る。

微笑みつつ、深刻にならず、観る。

そして、観る人なく、観る。


思考がでっちあげる、深刻劇には巻き込まれずに済みます。

思考をほったらかす、ほったらかすことも、ほったらかす。

その気楽さのなかに、観る。


過去の悔いを、観る。

未来の不安を、観る。

過去の投影が未来であり、過去を取り消せば、投影も止む。

この聖なる瞬間のみが真理であり、この聖なる瞬間は、つかまえることもとどめることもできない。

真理は一瞬。儚いそれ。

虚しさを、観る。

観ることは、真理への扉だ。


お籠りの半年間を、愛おしく観る、いま、この瞬間から、創造の躍動を感じています。


さて、さて、過去参照のない、いま、ここに在る、物語とは何なんでしょうか、愉しみですね。

無邪氣に、生 ~ ミラクル・ワーカーはじめの一歩 ~

この人生、夢幻に眠り悪戦苦闘の50年。たましいの闇夜という変容のトンネルをひかりに向かって運ばれて、夢幻からじわりじわりと目覚めかけたこの瞬間。あらたな生が無邪気に躍動していくさまを綴ります。

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