私は一歩退いて、神に導いてもらいます。
存在するように見えながら、実は存在していないこの世界の中で生きるための、ひとつの生き方があります。あなたの外見が変わることはないけど、あなたはもっとたびたび微笑むようになります。あなたの額は穏やかで、瞳は静かです。そして、この世界であなたと同じように歩む人たちは、自分と同じ人たちを認識します。でも、その生き方をまだ知覚していない人たちもあなたを認識し、あなたが以前と変わらず、自分たちと同じだと信じるでしょう。世界は、幻想です。そこに来ることを選ぶ人たちは、彼ら自身が幻想となり、自分の実相を回避できる場所を求めています。しかし、ここにも自分の実相があると発見したときには、彼らは一歩退き、その実相に導いてもらおうとします。実際、それ以外に、彼らにどんな選択肢があるでしょうか?幻想に真理を先導させるのは狂気です。しかし、幻想を真理の後に退け、あるがままの真理を前面に立たせることは、単に正気であることにすぎません。これが、今日私達が行う単純な選択です。狂った幻想は、いましばらくは形跡を残すでしょう。それはここにくることを選択し、まだその選択の間違いに気づいて喜ぶまでには至っていない人たちが(しばしの間)見る者です。彼らは真理から直接学ぶことはできません。なぜなら、彼らは真理が真理であることを否定したからです。だから、彼らには教師――精霊――が必要です。彼らの狂気は知覚するけど、彼らの中にある幻想を見過ごして単純な真理を見ることができる教師――精霊――です。(『奇跡講座』レッスン155)
昨年365日かけて実習した『奇跡講座』ワークブック。「これはおわりでなくはじまりです」ということばでしめています。一旦おえて、半年が過ぎ、テキスト、全31章の通読が始まりました。
まず、起こったことは、大酒のみの習慣が、ある日、ぴたっと止まりました。その日の朝、他界した父親が思い出されて、その脅迫観念だった何かが消えていきました。その脅迫観念が、大酒のみの「家系」を継いでいたのかもしれません。
「過去(その思い)には何も意味も力もない」
『奇跡講座』では、悪習慣の源には(飲酒に限らず、スマホゲームとか甘いものとか買い物とか喫煙とか・・・外部に依存するものを、特別な関係と見て、そこには罪悪感や恐れが潜んでいると観ていいます。悪習慣とわかっていても、悪習慣がやめられない。
世界を嘆いても無駄です。世界を変えようとしても無駄です。それは結果にすぎないのだから、変わりようがありませn。しかし世界についてのあなたの考えを変えることならば、確かに意義があります。そうすれば、原因を変えることになるからです。その結果は自ずと変わっていきます。(『奇跡講座』W-pI.23.2:2-7)
この原因を変えることが、『赦し』だといいます。でも、この『赦し』は一般的に言われている、赦しではありません。何か悪いことをした加害者を被害者が赦すというのが一般的な赦しです。ここには加害者と被害者という対立が存在することになります。奇跡講座では、この加害者と被害者がそもそもなく、そう見えるのはその原因の源で何か間違った選択をしているからだと見ます。その間違いを取り消すことが『赦し』だといいます。
間違いが取り消されれば、結果も自ずと消えます。
映画館の上映映画のフィルムが交換されるように・・・。『奇跡講座』でいうこの『赦し』は、その起こった結果でなく、原因が自らの中に在ることにきづき、その取り消しは自ら自身でなく、聖霊という神の使者に任せます。
取り消しの「メソッド」は、いろいろあります。セドナメソッド、4つの質問、ホオポノポノ・・・。この世は幻想で、この出来事は幻想、この幻想から力をいま取り戻すと決めるという意志。『奇跡講座』には、こういう具体的な自力メソッドというより、純粋なきづきにまかせるという、他力内観のような感じです。
内観はあるけど、内観者はいない的な(笑)。
人生の前半は、自分でなんとかする、自力人生。 自我がシャイアン化していって肥大化し(天狗になり)、何かが起こり、収縮します。 そして、人生の後半は、大いなる何かに委ねる、他力人生。 ――人生を生きていくことと、人生に生かされていくこと―― 変転時期には、前半のなんとかする、残像に惑わされながら、もとにもどり苦闘するようなことも起こるけど、おおいなるなにかへの信頼が育っていく感じに安心していくと行ったり来たりが少なくなっていきます。 過去の後悔をする、未来の心配をする、いまこの瞬間にくつろぐ。 すると、あたたかいやすらぎに包まれます。 後悔することも、心配することも、ここではやすらぎへの扉となっていきます。 後悔に与えていた力、心配に与えていた力の向きを、いまこの瞬間にかえすことでそれは瞬時に起こっていきます。 こんなインナーワークの毎日がはじまりました。
その数日先、富士宮が気になり、過去何度か行っていたのですが、ひさびさに、富士宮のある施設を訪問しました。そこには、過去ご縁のあった半僧半学のお方が、新しく建立した超宗派のお寺がありました。このお方とは、人生の節目で何度か会っていました。
そして、「終わらせなさい」、とのつぶやき。 何を終わらせるのか、頭では「はぁ?」、でもハートにはわかっているようでした。 どこかで修行していた記憶が落ちていきました。そして、そのお方が気になることが以後少なくなっていきました。
食事は、一日一食で満たされるようになり、さらにインナーワーク――内観――が深まっていきました。 これまでバラバラだったたくさんの記憶の欠片が、見つめなおされ、ひとつに溶け込んでいくような心地よさがありました。 インナーワークというには、自我によっては「退屈」で、自我は、いつも、外部に刺激的な出来事を追い求めようとします。それはジェットコースターの例えのように、恐れの感情を食べながら、喜怒哀楽の振り子に振られて一生を終える日までそれをつづけます。
過去参照で人生をつくりなおすことをしなくなった今、何を参照するのでしょうか?
恐れから人生をつくりなおすことをしなくなった今、何から人生をつくりなおすのでしょうか?
「人生をつくりなおす必要などありません」
「人生やりなおす必要などもありません」
「あなたがいかされているという事実は、あなたに役割がすでに与えられているということを意味しています」
「だから、流れにまかせていきなさい」
変えることなく、それは自ずと変わっていきます。 やり直すことなく、それは自ずとアップデートしていきます。 すべては、間に合うようになっていきます。
起業人生だった全半生は恐れから人生をつくって、恐れで終わりました。
これからの後半世は、無条件愛を人生に招いて、無条件愛からはじめよう。
「
愛はビジネスとしても成功を導きます。どんな仕事でも愛を基調にする限り、聖職とすることができるのです。あなたのキャリアを紙が絵を描くための真っ白なキャンバスにすることもできます。あなたお才能や能力が何であれ、神はそれを活用することができます。不思議な力に導かれるままにすると、私達の聖職は私達自身にとっても他の人達にとっても歓喜に満ちた体験になります。私達は導きに従うだけでいいのです。
」(『愛への帰還』より)
日々あらたに、毎日が、祝祭。
これまでの人生と呼んでいたものはぜ~んぶ、夢物語。 夢から目覚めたら、そこには・・・。 そんなきづきが、日々深まっている奇蹟の毎日に贈ることばを綴っています。
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