そこにスプーンは、ない。

 脳出血が起こって、人生が転換してから5年が過ぎました。 

それは突然起きました。身体の半分が動かない、自分でなんとかしようと手当しようとするけど、意識が薄らいでいく。内面の誰かが、隣人に助けをもとめていました。 救急車に運ばれていき、「もう何もできることはない」と、今から思えば、おおいなる何かに明け渡していました。 


「これは、自分を罰したんだ」。


どこからともなくそういうささやきを感じました。 そして、「わたしは、わたしを赦します」という言葉を寝る前に繰り返しました。今でも若干の後遺症がありますが、日常生活をする上では障害がないところまで還りました。 

いま、『マトリクス』をみながら、それを思い出します。 マトリクスの主人公は、エゴまみれの固定観念や制限でがんじがらめになった世界に住んで、その世界にとどまるか、それらの制限を解いた無限の可能性の世界に進むか、という選択をします。これが『奇跡講座』でいう、自我の恐れの思考体系に戻るか、聖霊の愛の思考体系に還るかの選択だと見えます。世間に飼い馴らされた人々の多くは、「選択」できることを忘れていて、自動でいつも「恐れ」を選択しつづけています。

そしてある日、魔法の家に招かれます。そこでは、超能力が開花した子供たちが、見るスプーンがくにゃっと曲がり、主人公に「スプーンなんてないんだ」といいます。

この世界なんて、もともとないんだ。 

と、この世界を別の見方で見て、恐れと欠乏のように見えていた世界から愛の満ち満ちた世界へとシフトするヒントを与えます。

自我がいう無限の可能性は、結果の世界を変える可能性について考えます。でも精霊の無限の可能性は、原因の世界を選びなおし、その可能性を根本から転換します。 病気の世界では、対処療法とか根治療法とかいう概念がありますが、ほとんどが、結果をみてそこに変化を与える対処療法です。この世界は、もちろん交通事故のような緊急事態においては結果に変化を与えることはできますが、そもそも交通事故に逢うといった原因は変化を与えることがありません。交通事故は常識的には、ただの不運に片づけられることが多いと思いますが、そこにも、なにかの縁があってものごとが起こります。深層意識の罪悪感のあらわれとしてそれが起こるかもしれません。その理由はなんであれ、深層意識の内容が外にあらわれるのです。「魂にメスはいらない」とユング研究者の故河合隼雄さんはいいました。分析も、結果の世界の変化を求めて行っていく対処療法でその根源にある「恐れ」は無意識に隠れたままです。

奇跡講座では、そこを原因の世界としてそこを癒します。その結果、結果は、変わるかもしれないし、変わらないかもしれないけど、「恐れ」をそのものが安らいでいくのにきづきます。恐れが消えていくから結果はある意味どうでもいいことになっていきます。

 自身で経験した脳出血という病気は、高血圧が原因とされ、高血圧が治れば、再発リスクは少なくなるということで、血圧コントロールという退院後の方針が示されました。医師に宣告された再発リスクをいつも恐れるというおみやげをもらいました。再発リスクを「恐れ」ながら降圧剤を続ける。結果の世界で生きる人ならこれがベストの治療だと思いますが、今から思えば、病気を創り出したのがこころであれば病気を癒すのもこころという概念を受けいれて、「わたしはわたしを赦します」と病気に対処する方法としてアファメーションのように繰り返したことは、もちろん原因に目を向けようとはしたけれど、それは結果のレベルでの変化をアファメーションという行動によって変えようとしていたんだと振り返りました。いま若干の後遺症があるのもその症状にアプローチするのでなく、その症状の原因を感じること、その原因を感じることにきづかせてくれために残ってくれているのかもしれませんね。奇跡講座では、真の原因に目を向けることは、途轍もなく怖いこと(と見せかけて原因に目を向けないように自我があらゆる手段で仕向けているので)に錯覚しているので忍耐強く実践していくことが大切だと言っています。この忍耐というのも我慢=辛いという信念が見え隠れしているのでそれらひとつひとつその間違った観念を訂正していきます。 操体法では、息食動想のバランスがそれぞれここちいいに方向にのびて感じて手放すことで自癒することをいいますが、辛い方向ではなく、ここちいい方向に。 原因は、結果を分析するような感性の何かひとつの原因を探ることはできません、愛を感じる方向に。 「ええじゃないか」どんな感覚もオープンに受け入れて、温泉に入るようなここちよさであ~うれしいなぁ、あ~たのしいなぁと、あるがままのすべてをあるまままうけいれる。 闘って回復したとなると、自我は満足かもしれませんが、その満足はすぐ過ぎ去り、また別の対象を咎め、裁きながら次への闘いを探します。その想いを、ただ見つめると、闘いは、止みます。 咎めず、裁かず、観る。 固定観念なく決めつけず、観る。 静かに、穏やかに、観る。 深刻になれず、観る。 ただ、観ることか、訊くことであり、感じること。 聴こうとせず、見ようとせず、感じようとしない。 聴こえてくるにまかせる。 見えてくるにまかせる。 感じてくるにまかせる。 

今日の題材は健康ですが、これを人生、仕事、人間関係、お金・・・なんでもこの選択の機会として出来事のすべては、起こっているんだと思います。分離による恐怖を選ぶか、一体による愛を選ぶか。ファイナルアンサー(笑)


「 あなたに見えている世界は、あなた自身がそこに与えたものであり、それ以上のものでない。しかし、それ以上でないとはいえ、それ以下でもない。しかがって、あなたにとって、それは重要である。それはあなたの心の状態を証するものであり、内的状況の外的映像である。人はその心に思うごとく知覚する。だから、世界を変えようとするのはやめなさい。そうではなく、世界についてのあなたの心を変えることを選びなさい。知覚は結果であり、原因ではない。『奇跡講座』第21章序1より 」 選ぼうとしない、選ぶというささやかな意志をただ感じるだけで自ずと選ばれます。 真の自由意志というのは、自我が選ぶことを放棄して、愛が選ぶことに任せることをいいます。 

0コメント

  • 1000 / 1000

日々あらたに、毎日が、祝祭。

これまでの人生と呼んでいたものはぜ~んぶ、夢物語。 夢から目覚めたら、そこには・・・。 そんなきづきが、日々深まっている奇蹟の毎日に贈ることばを綴っています。