サヌキにとって、「起業」するというのは、同じことの繰り返しでした。
起業してロケットスタートして、それはやがていばらの道になり、悪戦苦闘しはじめ、光の道が塞がっていくというパターンを「繰り返して」いるようでした。
20代のころは、松下幸之助さんが憧憬の人でした。
それが30代になり、稲森和夫さんになり、
40代になり、空海さんになりました。空海さんは各地で産業を起こしつづけた元祖起業家だったのです。さぬきうどんを起業したり、灌漑事業をしたり、まさに經世濟民の人でした。
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經世濟民(けいせいさいみん、経世済民)は、中国の古典に登場する語で、文字通りには、「世を經(おさ)め、民を濟(すく)う」の意。
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経済っていまでは、新自由主義とか、金融資本主義とか、イメージをもたれていますが、「世を經(おさ)め、民を濟(すく)う」という見方がもともとの見方だったわけですね。
そのなかで自己責任の世の中ですが、本来は、おかげさま、おたがいさまという相互扶助の精神ですべてが成り立っていたんだと思います。
天災や飢饉があるなかで、欠乏からの恐れがおおいなる何かに支えられ、助け合いながら救われていく。それが経済だったわけです。 若いころの空海さんが、どこかの岬の洞窟で、「太陽が口に飛び込んできて」「恐れそのものなどそもそもないのだ」という啓示を経験して、それが經世濟民の発願となりました。そのツールとして仏道に導かれていきました。日本国中に、空海さんの伝説がありますが、もしかして、空海さんは空間移動をしたり、死んだ者を蘇らせたりなどなどいまの時空という常識を超えた魂だったかもしれませんね。
自我の見方によると、悪戦苦闘して、苦しんで勝ち得た結果は満足となるのですが、勝ち得ても、偽りの満足があるだけで、なにか虚しさで終わる。それを見ないように、さらに悪戦苦闘というラットレースを繰り返す。いつか負けることの恐れをひた隠しながら・・・。それが個人から隣人にそして共同体にまで延長されていきます。知らない人から声をかけられても返事してはいけない、という社会。個々の欠片に分断されていった社会。原子力発電は、核「分裂」で熱エネルギーを出します。太陽は、核「融合」で熱エネルギーを出しています。まるで個々が欠片に分裂したあわせかがみのようです。「分裂」と「融合」が選択の結果であれば、「融合」にシフトすることもできるのだろうと思います。 「神はサイコロをふらない」これは、一般的に思われている量子力学や超ヒモ理論などへの批判をいっていたのでなく、人類が選択してきたことのなにかのたとえ話なのかもしれませんね。
恐怖に立脚した科学技術から、平安に立脚する科学技術へ。
巷では闇の勢力と光の勢力の最後の闘いのように面白可笑しく語っていることも見かけます。
最後の聖戦は、戦うか、逃げるかではなく、拡張しつづける宇宙のいのちの働きへの「降参」にあるのかもしれませんね。話が脱線してきました。ここで選びなおして(笑)
もし、イエシュア(=イエス、キリスト教のイエスをいうイメージを外したいのでこう表現)イエスが起業家だったら、すべてを愛と赦しからはじめるであろう。
50代になり、空海さんへの憧憬は、イエシュアさんへの憧憬にシフトしていきました。
今、この日本の起業は「ブラック企業」などいわれたり、超一流企業が上場廃止になっていったり、コンプライアンス違反で頭を下げる情景をたびたび見るようなっています。人財―人材―人罪などと人は分別され、勝ち組―負け組などともいわれて、自己責任などともいわれて、内なる加害者と被害者という構図がこの社会の構図となって投影されているかのようです。 何かの罪悪感に追われて、ごめんね、ごめんねと叫んでいるかのように・・・。 經世濟民の見方からすると、働くことは、愛の反映であり、罪という間違いの取り消しにほかなりません。
集団エゴの集まりである利己企業は、愛の利他企業になる。そこには、なにかを与えるには何かを犠牲にするという、条件愛の犠牲のともなう利他ではなく、真の愛の表現としての利他がある。自他一如に輝いている。それが互いが生き残っていくために起業するのか、互いが生かされるために、起業するのか、この微妙なニュアンスの違いは、結果が大きく違ってきます。
もし、イエシュアが起業家だったら、すべてを愛と赦しからはじめるであろう。
自我が起点であれば、建前は「地球にやさしい企業」というような包装紙はきれいにととのっていますが、本音は、「業績が悪くなれば人をきらねばならない」とか「企業同士が競争して切磋琢磨して進化していくけど、医療費や鬱患者と予備軍は増えていく、自殺者は一見減ったように見えても生ける屍化していく」という戦うか、逃げるか、生きるか、死ぬかという命題がずっと隠されているのです。 持続可能性という言葉も定着してきましたが、このまま(大量生産大量消費大量放棄社会をつづけていては地球資源は枯渇して持続不可能社会になります。
その対立構造を離れて、ゆだねる。御心にゆだねる。
10年ぐらい前に、『関西アーバン銀行』の立て直しを行った伊藤忠彦さんという方がおられて、この方が『宇宙にゆだねる経営』ということを仰っていました。キリスト教を信じておられたお方ですが、倒産寸前の第二地銀をトップクラスに蘇らせました。銀行というのは、この社会の基盤です。でもその源は無尽講という相互扶助組織だったのです。キリスト教の御心のままにという精神を、宇宙に委ねるという比喩に変えて、受け入れていった奇跡です。
対立構造を演じている時はそこにどっぷりはまっているのでそこが見えません。というよりも、そこを見ないように、見ないように、しているのです。わかりやすくいうと、お隣の国が覇権国と脅しあいのチキンレースに目をとられて自らをみていないということ。 そんな過去をいつまで繰り返すのでしょうか?
いつも、悪戦苦闘になっていくときに、読んで救われていた一冊の本があります。 『この世で一番の奇跡』というオグマンディーノというお方が書いたものです。 そのなかに、神からあなたへの神への覚書というメッセージがあります。
「 神からあなたへ あなたの叫びが聞こえます。
幾重もの雲にさえぎられた暗闇を突き抜け、星の光と混じりあったあなたの叫びは、太陽の光の道筋にいるわたしの心に届きます。
罠にかかって窒息したウサギ、巣から転がり落ちたスズメ、池のなかでもがいている子供、十字架の上で血を流している息子の泣き声に、わたしは苦しめられています。
わたしがあなたの声を聞いていることをわかってください。そして心を平和にし、落ち着いてください。 わたしがあなたの悲しみを慰めてあげましょう。わたしはあなたの悲しみの原因も……それを癒す方法も知っています。 あなたは子供のときの夢が年を重ねるにつれて、ことごとくついえさってしまったことを嘆いています。
自分を敬う気持ちが数々の失敗によって崩されてしまったことを嘆いています。
自分の潜在的な可能性のすべてを、安全性と引き換えに、手放してしまったことを嘆いています。 自分の個性が大衆によって踏みにじられてしまったことを嘆いています。
自分の才能がすべてあやまった使い方によって、無駄にされてきたことを嘆いています。
あなたは自分自身のことを不名誉な人間として見つめ、水たまりに映った自分の姿から顔をそむけます。生気のない目で恥ずかしげにあなたを見返すこの人間の偽者は一体、何者なのでしょう?
あなたの優雅な作法、美しい姿、きびきびした動作、澄みきった心、気のきいた話し方はどこへいってしまったのですか? あなたのそうした品々を誰が盗んだのですか?
わたしは盗んだ者の正体を知っていますが、あなたも知っているのですか?
かつてあなたは、あなたの父の牧場の草枕に頭をのせ、雲の大伽藍を見あげて、バビロンのすべての黄金がやがて自分のものになることを知りました。 かつてあなたはたくさんの本を読み、たくさん書き、ソロモンのすべての知恵に自分が追いつき追い越すことを確信していました。
そして、季節が移り変わって年がたつうちに、自分自身のエデンの園を治めるようになるだろうと確信しました。 あなたのなかにそれらの計画や夢や種を植えつけたのが誰か覚えていますか?
思い出せないでしょう。 はじめてあなたが母親の子宮から出てきて、わたしがあなたの柔らかな額に手をおいたときのことを覚えていないでしょう。あなたを祝福するさい、あなたの小さな耳元にわたしが囁いたことを覚えていますか?
わたしたちの間の秘密を覚えていますか?
思いだせないでしょう。 」『この世で一番の奇跡』PHP文庫
『奇跡講座』によると、「神から分離できる」という狂った考えが、「分離」という幻想をこしらえて、その幻想のなかで、「正しいこころ」である愛と赦しと「間違ったこころ」である罪と恐れという選択がありました。 自我は「間違ったこころ」である罪と恐れに同一化していって、選んだことさえ忘れて、同一化をつづけていった。これが今の世の中の加害者被害者の構造とか、戦うか逃げるかの競争社会の構造とかに投影して悪いのは社会であって自分の中にはないと、その原因がみずからの選択にあったことを思い出せしなくしている。 このことを、「解離」という概念を使って説明しています。
『この世で一番の奇跡』のなかにある「思出せなかったでしょう」というのは解離を意味しています。 「 なぜなら、(間違ったこころを選んだ結果)恐怖、疑惑、不安、悔恨、憎悪があなたの心を満たし、それらの獣が棲みついた場所に、楽しい記憶がいすわれる余地がないからです。 」 そして、間違って選択したことを思い出したら、再び、(正しいこころを)選択しなおそう、というささやかな意欲がめばえてきます。
「
これ以上、嘆かないでください。わたしはあなたとともにいます……この瞬間はあなたの人生の分かれ目です。今までに過ぎ去った年月は、母親の子宮のなかで眠っていたのと同じようなものです。過ぎ去ったものは死んだものです。死人は死人に埋めてもらいましょう。
今日、あなたは生きた屍から蘇ります。 ラザロの墓でイエスがしたように、今日、わたしはあなたに出てくるように命じましょう。そうすれば、あなたの運命の洞穴から歩み出て、新しい人生をはじめるでしょう。 今日はあなたの誕生日。あなたの新しい誕生の日。あなたの最初の人生は、劇のリハーサルのようなものにすぎませんでした。今回は幕が上がります。今回は世間が見つめ、拍手する用意をしています。今回、あなたは失敗しません。 あなたのロウソクを灯しなさい。パンを分かちあいなさい。ワインを注ぎなさい。あなたは生まれ変わったのです。 さなぎからかえった蝶のように、あなたは飛びたつでしょう。望みのままに高々と飛ぶでしょう。ハチもトンボもカマキリも、真の人生の豊かさをもとめようとするあなたの使命や探求を邪魔しないでしょう。 あなたの頭にわたしの手が置かれているのを感じなさい。 わたしの知恵に耳を貸すのです。 あなたが生まれたときに聞いて忘れてしまった秘密をいま一度、分かち合いましょう。 あなたはわたしの最大の奇跡。 この世で一番の奇跡。
」
この奇跡は、『奇跡講座』でいう、「愛と赦し」と解釈していいと思います。「正しいこころ」を選択しつづけることですね。最初は、選択しても、また「間違ったこころ」をにゆりもどされたりして行きつ戻りつをくりかえすので、ゆりもどしがなくなるまで「神の覚書」を100日繰り返し読むよう勧めています。 『奇跡講座』では、戸惑うごとに、愛と赦しを、実践、実践、また実践です。
「
今、わたしはあなたとともにいます。あなたを救うために。 ふたたびわたしはあなたの上に手を置きます。 今回で二度目です。 あなたはわたしの面影を宿しています。 それを知らなかったのですか? 聞いたことがありませんでしたか? 最初から告げられていなかったのでしょうか? 地が創造されたときからずっとわかっていなかったのですか? そのように尋ねてもむだでしょう。 あなたはそれを知りませんでした。聞いていませんでした。わかっていませんでした。 あなたは、神のようななりをしていると告げられてきました。愚か者を演じる神だと告げられてきました。 」
ということで、自分は神から分離して裏切った愚か者(誤ったこころ)だと思い、神から叱られ罰を与えられる、咎められると誤解してきたのです。 でも、実は神は咎めるどころか、
「 あなたは、高貴な目的と無限の能力をもった特別な芸術作品だと告げられてきました。天使のようにふるまい、神のような理解力をもった、形も動きもすばらしい作品だと告げられてきました。 あなたは地の塩だと告げられてきました。 あなたは山を動かす秘密や、不可能を可能にする秘密さえ授けられました。 なのに、あなたは(自らに授けられたそれらを自ら忘れ、その責任を外部になすりつけ、)誰も信じなくなりました。幸福へといたる地図を焼き払い、心の平和をもとめることをやめ、栄光へとつづく運命の道の脇におかれたロウソクを消してしまったのです。 そして、無意味さと自己憐憫の暗闇のなかで、つまずき、迷い、恐れ、ついには自分で生みだした地獄に落ちてしまったのです。 その結果、あなたは泣き、胸をかきむしり、自分の身にふりかかった運命を呪いました。自分自身の狭い了見と怠惰なおこないが目の前の結果を生みだしていることを認めようとせず、自分の失敗の責任を負わせるスケープ・ゴートをさがしました。なんと素早く、スケープ・ゴートを見いだしたでしょう。 あなたはわたしを責めました!自分の困難、凡庸さ、チャンス不足、失敗は……神の意思だと叫んだのです!あなたは間違っています!あなたはすばらしい恵みをさずけられているのです。
」
『奇跡講座』を読んでいると、まさに同じようなことが『この世で一番の奇跡』のなかで展開されていたこと、それを過去辛いたびに読み返してきたことが今朝思い出されました。
① ちなみに、すでにすべて与えられているその恵みに感謝すること。
② 自分のかけがいのなさを主張すること。
③ 自分の枠を超えること
④ 選択する力が与えられていることを思い出すこと の4つの習慣で罪と恐れの人生から、愛と赦しという奇跡にシフトすることができると説いています。
『奇跡講座』の選択はいたってシンプル、愛と赦しをひさすら選ぶ、ただこれだけ。
そのために、 内面を、
咎めず、裁かず、観る。
価値判断をせず、観る。
静かに穏やかに冷静に、観る。
微笑みながら、深刻にならずに、観る。
思考の恫喝に反応せずに、ありのままを正直にあるがまま、観る。
この観るというのは、簡単そうに見えますが、思考同一化してきた習慣は、最初は簡単に解放されることがないので、ぼちぼち、じっくり実践していくことが大切なのかもしれません。そして、いつの瞬間かに、そこから解放される。
もし、イエシュアが起業家だったら、愛と赦しからすべてをはじめるだろう。
競争社会のなかで、生きるか死ぬか(という幻想)にどっぷりつかるのでなく、愛と赦しを選びつづける。思考同一化していることに都度きづくことで感じることに還る。
4度目の起業は、4度目の正直、その前に、昨年、また生きるか死ぬかの世界への揺り戻しがありました。過去の経験からまた起業を再演するところでした。 愛と赦しの起業・・・。
この一年、インナーワークを繰り返し、そして2017年11月11日より歳末クリアランスセール(過去の思考の在庫一掃)を愉しくやり過ごし、いま真の再生(というか本来への姿への帰還)がはじまっています。
「
私は過去とは違った未来を求める
世界の新しい知覚の中から、過去とはまったく異なった未来がやってくる。今や未来は現在の延長にすぎないと認識される。過去の誤りは未来に影を落とさず、恐れは偶像も形象も失って形なきものとなり、いかなる結果ももたらさない。今では、死が未来を奪おうとすることはない。今や未来のもつゴールは生命となり、そのために必要な手段はすべて快く用意されるからである。現在が解き放たれ、その安全と平安が延長され、喜びに満ちた静かな未来へと続いていくときに、誰が嘆いたりできるだろう。 父よ、私たちは過去において間違っていましたが、今は自由になるために現在を使うことを選びます。今、私たちは未来御手にゆだね、過去の間違いを後にします。そして、あなたが現在の約束を守り、その聖なる光の中で未来を導いてくださることを確信しています。 『奇跡講座レッスン314』
」
柔和なものが地を引き継ぐであろう。過去とはまったく異なった未来がやってくる。その地は、新しき地である。新しき地では幸せな夢が、紡がれていく。
日々あらたに、毎日が、祝祭。
これまでの人生と呼んでいたものはぜ~んぶ、夢物語。 夢から目覚めたら、そこには・・・。 そんなきづきが、日々深まっている奇蹟の毎日に贈ることばを綴っています。
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