生まれた、その瞬間に、サヌキはサヌキに自己催眠をかけました。 「選んだ何かを忘れる」という自己催眠に。 そして全てを忘れました。 そして、忘れたという罪悪感を、覆い隠し、それが恐れの肥大化になっていきました。 やがてその恐れは、何かを裏切り大切ななにかを忘れたという後ろめたさから目覚めることを妨げる盾となりました。
ものごころついたころには、自分の人生は、何にも頼らなくても、自分ひとりでいきていくという自作自演の催眠術にかけて、ほんとうは、生まれる前に決めてきたシナリオにただ従っていかされているだけなのに、あたかも自分で生きているように眠りつづけるというシナリオを演じてきました。自分で生きているという間違った心に先導され、自作自演、悪戦苦闘の物語を演じてきました。
離見の見。
世阿弥は、内的状況の外的映像という投影のしくみを能という世界観で解き明かしました。
自らの人生の舞台で面を取り換えながら、自作自演のときには深刻劇を、ときには愛憎劇を、ときには苦闘劇を、演じていきます。自我のシナリオに従いながら。 その舞台で演じる姿に同一化したエゴは、それが劇であることにきづきません。 観客からその舞を、全てを忘れ、こころの無垢な目で、観じなさい。
「 一瞬の間、静まり、私たちがこれまでに学んだすべてのものごとや抱いたことのあるすべての想念を忘れ、ものごとが何を意味し、それが何を目的にしているのかについて私たちが抱いている先入観のすべてを忘れよう。この世界が何のためにあるのかについての私たちが抱いている私たちの独自の考えも、思い出さないようにしよう。私たちは知らないのである。あらゆる者について描かれてあらゆる形象を、私たちの心から解き放ち、一掃させよう。『奇跡講座』31章Ⅰ:12 」
すると、それはただの過去後悔した自虐の物語であって、いまこの瞬間の未知の慈愛の物語に選びなおすことができるのだということに気づきます。 そして、闇を照らして、そのひかり本当の自己とともに演じ始めます。 裁きの夢kら赦しの夢へひかりは導き、苦闘と恐れの外に連れ出されていきます。 忘れたしまった罪悪感が、過去を忘れることを引き留めています。 そして過去に引き留められることからいつまでもその過去の繰り返しが再生され続けていきます。だから、罪悪感そのものも、忘れてしまいましょう。それが赦しです。
「
16 すべてを忘れなさい
1 わが子よ、 あなたは好きなだけ聖典を読みあさり 討論することに忙しいかもしれない だが、あなたがすべてを忘れ去るまでは けっしてハートで生きることはないだろう
2 あなたは賢く 遊び、仕事をし、瞑想する それでも、あなたの心はいまだに すべてを超え すべての欲望が消え去る彼方を望んでいる
3 努力こそが悲しみの根本原因なのだ だが、誰がこれを理解するというのだろう? この教えを理解して 祝福を受けるとき はじめてあなたは自由を見いだすだろう
4 師より不精な人がいるだろうか? 瞬きひとつにさえ苦労する! それでも、ただ彼だけが幸せな人なのだ ただ彼だけが!
5 これを見て あれを無視する…… だが、心が ひとつのことを別のことに対立させる習慣をやめると それはもはや快楽を渇望せず 富や、修行や、解脱のことなど もはや気にしなくなる
6 感覚的快楽への渇望から 執着が生まれる それらに価値がないと見なせば あなたは無執着を学ぶ だが、何も望まず そして何も拒絶しなければ 執着も無執着もあなたを縛りつけはしない
7 識別なしに生きるとき 欲望が生まれる 欲望がつきまとえば 好き嫌いといった 選り好みの感覚も生まれる それらは世界の根であり枝なのだ
8 活動から欲望が 放棄から嫌悪が生まれる ところが、賢者は子供なのだ 彼はけっして ひとつのことを別のことに対立させたりしない それは本当だ! 彼は子供なのだ
9 もしあなたが世界を望めば 悲しみを避けるために 世界を放棄しなければならないだろう その代わりに欲望を放棄しなさい! そうすれば、あなたは悲しみからも自由になり 世界があなたをかき乱すこともないだろう
10 もしあなたが自由を望みながら まだ「私のもの」と言いつづけ 自分を身体だと感じつづけるなら あなたは賢者でも探求者でもない あなたはただの苦しむ人間だ
11 ハリ、蓮から生まれたブラフマー あるいはシヴァから学ぶがいい! あなたがすべてを忘れ去るまでは けっしてハートで生きることはないのだ」(『アシュターバクラ・ギーター 真我の輝き』)
この人生は、すでに書かれているシナリオをただ演じているという観念。
それが偽りの自己によると、恐れの物語になり、真の自己によると愛の物語になる。 思い出すために、忘れなさい。 真理のシナリオを思い出すために、偽りのシナリオを忘れなさい。 そして、真理のシナリオにいかされていきなさい。
目覚め。 今朝、目が覚めたら、一厘の百合の花が咲いていました。
目覚め、新たなる何か、がはじまりました。
聖霊(真の自己)に今日も主導者になってもらいます。
そして私は一歩引いてともに歩みます。
ひとつであることの代替えである何かの偶像に頼るのをやめて、まず、ひとつそのもの(創造主=神)を求めます。
そして、真の赦しを実践します。
偽の赦しは、本当は罪はあるけど、今回は咎めずにおくと罪という幻想を温存させるいうもの。
真の赦しは、罪は幻想ではじめからなにもなく、たんなる間違いだったことを受け入れること。
そして起こっているすべてをただあるがままに観ること。
咎めず、裁かず、観ること。
価値判断をせず、観ること。
静かに、穏やかに、冷静に、観ること。
微笑みながら深刻にならず、観ること。
観客席から立ち去ること。 観客席に還ること。
浮世は、加害者‐被害者の闘いの物語に溢れています。
いつまで闘うのでしょうか?永遠に勝ちのない、ラットレースの物語を。
罪悪感を、投影して、罪悪感のなかにいつまで眠るのでしょう。
いつか目覚めるのではなく、いまここで目覚めること。
そして、赦しを実践しつづけること。
これが、アメリカファースト、都民ファースト、自分ファースト、福島の現状に目を背け、電気使い放題、ネオンきらめく虚栄都市。
みんながわれだけよしになったら、世界はどうなるだろう?
この暴走は、本当に、2020に止むのだろうか?さらなる病むに苛まれるのだろうか?
加害者も被害者もないとき、ひとつであるとき、そこにはなんの我慢も、なんの犠牲もない。
いま、相互扶助に目覚めるとき。
過去の罪重ねたシナリオをすべて忘れ、聖なるこの瞬間の愛と赦しの青写真に目覚めていく。
いきとしいけるものすべてが幸せでありますように。
そのひとつの瞬間に、あふるる、無限の喜び、そのひとつに包まれる無限の愛。
日々あらたに、毎日が、祝祭。
これまでの人生と呼んでいたものはぜ~んぶ、夢物語。 夢から目覚めたら、そこには・・・。 そんなきづきが、日々深まっている奇蹟の毎日に贈ることばを綴っています。
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