ほんとうは、すでに、誰もが、すべて赦されているんだよ。

やるべきこともいくべきところもない。 

もう、すでにそれは完了している。 

離れるも還るもない、はじめからここにいたんだ。 

離れている、ふりをしていただけ、恐がるふりをしていただけ、うしろめたいふりをしていただけ、

ふり、から目覚めよう。 

 ふり、をするのは、もうやめよう。 

ほんとうのあなたは、ふりなどしなくても、完全無欠のあなたなんだ。 

 赦す。 

 悪いことをした誰かを、大目にみて、赦す、という観念。

 ほんとうの赦すっていうのは、 悪いことという幻想は、ただの幻想で本当は起こっていなかったので、幻想を現実だと勘違いしたことを取り消すということ。 

起こったことへの条件反射があなたの気持ちを揺れ動かす。

でも、その条件反射が間違いだったら、内面は、やすらぎのまま。

だから、間違いを取り消す。

その勘違いは、受胎のときにはじまった。 

今ある勘違いは、そのリピート再生なんだ。 

勘違いしつづける、その源に還らないかぎり。  

この一瞬に、その源はある。 

過去、未来に想いを馳せてるときは、その源から離れて真理をみえなくしている。 

なにか恐怖を感じたとき、なにか不快感を感じたときに、やってみよう。 

「 

これは、完全に幻想だ。私は、今、この幻想から力を取り戻す

 」 

 頭で言うのでなく、ハートを感じながら。 

無限の可能性秘めたあなたは、いつもこの幻想で制限をしている、無限の可能性などとんでもないことだという制限を。 

でも、それを発揮するとき、あなたはあなたになる。 

これまでも、幾多の覚者たちが例えてきた、それ。 

まずは、外で起こっていることは、内面の投影だと認めて、反応する前に、つっこみを入れる。 

「 

これは、間違いという幻想だ 」

 

と、それを間違ったからどうのこうのって咎めるのでなく、恐れはただのうっかり勘違いだ。

見逃すのでなく、見送る。 

見逃すというのは、認めて背けることだけど、見送るというのは、そもそもそれはなかったという理解だ。

これに、これはどういう意味だと、解釈したり、もうだからいい、こうだからダメだと価値判断して、この間違いがあったことにしている。 

 そもそもこの間違いは、勘違いだ。 

 その主張は、現実逃避だと内なる誰かが、責める。

 そのこころのはたらきを無垢に、無邪気に、俯瞰しなさい。  

何か起こったことを歓迎しなさい。 

そして何も起こっていなかったことを歓迎しなさい。

起こったことは、起こらなかったこと。 

 起こったと思ったら、すぐに、内面に還りなさい。  

起こったことに条件反射するというプログラムをアンインストールしなさい。  

そして、安心して、起こったことに、対処しなさい。 

内なる愛とともに、対処しなさい。  

本当の赦しというのは罪と罰という条件反射の環を気づきにより取り消すこと。

そしてその取り消しも、すでに完了している。

過去完了、未来完了。いまここで完了している。


 「

 奇跡は、誤った思考の中に私が導入する訂正である。それは触媒として作用し、間違った知覚を分解し、それを正しく再構成する。これがあなたを贖罪の原理のもとに置くことになり、そこで知覚が癒される。これが起こるまでは、神の摂理について智識は不可能である。 

」(T1:Ⅰ37)  

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これまでの人生と呼んでいたものはぜ~んぶ、夢物語。 夢から目覚めたら、そこには・・・。 そんなきづきが、日々深まっている奇蹟の毎日に贈ることばを綴っています。