流れにまかせて、風にまかせて、きづきにまかせて喜楽にくらそう。

 あなたは、来るべきふさわしいときにやってきました。

そして、物事の自然な流れの中であなたは去っていった


ながれのままに、あるがままに。  


「 実に、それが「御心」です。でも、分離した人は「御心」を受け入れる心の準備ができていず。自分自身を主張するので、何であれ運命づけれられていることが起こると聞かされなければならないのです 」(ラメッシ・バルセカール) 


 もし、70億人の個々のすべてが我だけよしと、好き勝手をやったらどうなるでしょう? 

たぶん、混沌となるでしょう。そしてルールを際限なくつくりつづけるでしょう。


もしかして「好きなことをやろうということも」全体の意志の現れだとしたら。

好きなことをやる人にはその想いが訪れ、好きなことをやりたくない人にもまたその想いが訪れ、全体から見ればそれが調和されていく。

 

その意志は、好きなことをやっているだけで全体が調和してくる、という好きなことなのです。

罪悪感とか後ろめたさが伴わない、好きなこと。 

そんな都合いいことなんてあるはずない、という想いが起こる人には、そんな都合いいことなんてあるはずはないという現実が創造され、ほらねっその信念を信じます。


いろんな想念を、いろんな人が受信しています。


おおいなる意志が「調和」というみえない慈悲の目で個々を見守っています。  

今、私には、書くという、好きなことが起こっています。

今、私には、最愛の人とともにいる、という好きなことが起こっています。 


何も、特別なこととは、必要ありません。 

人は、何か特別なことで満たされているのではありません。

ただ、充ちて、満たされて、いかされていきます。  


 エゴはたったひとつの場所から、常に存在している唯一のものからしかくることができません、それは、意識です。ですからラマナ・マハルシは言ったのです。 「エゴの源泉を見つけなさい」「誰がこれをやっているのですか?誰が知りたがっているのですか?」と。 この質問のポイントは、答えを見つけることではありません。でも答えがないときは心が落ち着くのです。エゴとはその同じ非個人的な意識の単なる反映です。この理解がエゴを源泉に連れ戻します。全体性の機能の一部としてエゴを受け入れ、何が起こっているかを、見てください。そうすれば問題は、なくなります

 」(ラメッシ・バルセカール) 


問い詰めるために質問はあるのでなく、関心(気づき)をむける、ただ見つめるために、質問はあります。答えを求めるために質問するという観念を手放し、関心(きづき)に任せるのです。


 もう、任せれば、何かをする必要はありません。関心(きづき)が、すべてをやってくれます。

大切なことは関心(きづき)を向けたら、忘れること。

関心(きづき)しつづけるということは、関心の力を束縛することです。

 きづいている人は誰もいない、ただ「きづき」がある。 エゴは、悪いものだから、咎め、裁きエゴを取り除きなさいといい、エゴを強化するという輪廻を続けます。 

この滑稽。 

この思考はどこからやってきてる?って向き合う。 

 どんな思考がやってきても、  

咎めず、裁かず、観る。 

価値判断なく、観る。 

静かに、穏やかに、冷静に、観る。 

微笑みながら、深刻さをほっといて、観る。 

 みこころのままに。

 「

 奇跡はあなたを尊ぶ。それはあなたが愛すべき存在だからである。奇跡はあなた自身についての幻想を一掃し、あなたの中の光を知覚する。こうして奇跡は、あなたを自分の悪夢から自由にすることにより、あなたの誤りを贖う。あなた自身の幻想による幽閉状態からあなたの心を解き放つことで、奇跡はあなたの正気を回復させる。 

」(T1:Ⅰ33) 

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日々あらたに、毎日が、祝祭。

これまでの人生と呼んでいたものはぜ~んぶ、夢物語。 夢から目覚めたら、そこには・・・。 そんなきづきが、日々深まっている奇蹟の毎日に贈ることばを綴っています。