やろう、なろう、を手放して、それが一番楽しいからやっていくことを赦していこう。
何かをやろうとか、何かになろうとしているとき、今のあなたのあるがままを否定しているということにきづいたことはないだろうか?
今のあなたにダメだしをしつづける、裁きつづけるということは、他人にもダメだしをしつづけることとなっていく。
それは、恐れに根差している。
それが一番たのしいからが、いまのありのままのあなただ。
誰かから押し付けられたそれではなく、比較して決めたそれでもない。
ささいなことで、いい。
朝、一杯のコーヒーのなかにしあわせがあっていい。
朝の贅沢な温泉のなかにそれを見つけるかもしれない。
午後のひとときに、響かせる、あなたの声のなかにあるのかもしれない。
日々、会うひとびととの会話のなかにあるのかもしらない。
夕食の自家製豆乳ヨーグルトの最初の一口にいつも感動する。
それぞれが、それぞれのオリジナルな楽しさに満ちている。
せっかくの一度きりの人生だから楽しまなければならない という想いと、 人生すべてをこころから楽しむことで、楽しむがひろがっていく。
という経験、
感じ方の違いはあるだろうか?
頭で選んでいるだろうか?
感覚に任せているだろうか?
「
人生に何か「意義のあること」が起こらなければ、楽しめないわけではない。 楽しみのなかには、あなたが必要とする以上の意義がある。 「生きがいが見つかるのを待つ」症候群は、無意識状態に最もよく見られる妄想だ。 楽しく行動するために変化が起こるのを待っているときよりも、自分の行動をすでに楽しんでいるときのほうが、外部的なレベルでの拡大や前向きの変化は起こりやすい。
」(エックハルトトール)
流れのちから。
無理にしなくても、自然にそうなっていく、自然に運ばれていく。
ゾーンに入る、ゾーンというのは聖なる瞬間、流れをこころから楽しむこと。
なにかをするから(外に反応して)楽しいのではなく、
うちなる「楽しい」が、続々、流れこんでくる。
うれしいがこんこんと湧きあがってくる。
生命が躍動する、無我夢中になる。
そこには、我がない。
そこには、裁きがない。
そこには、深刻さも、ない。
そこには微笑みだけが、ある。
柔和なものが地を引き継ぐだろう、というのは、我がない、 気にする、気になるがない、無邪気、純粋無垢だ。
それは、義務ではない、天賦だ。
天賦の才能は、たのしい基準で花開く。
「
目的のための手段として行動するのではなく、いまこの瞬間に全身全霊を込めて行動すれば、どんな行動でも楽しむことができる。 ほんとうは楽しいのは行動ではなく、そこに流れ込む深い躍動する生命感で、その生命感はあなたと一体なのだ。
」(エックハルトトール)
奇跡は、私たちを通して兄弟たちに届く神からの普遍的な祝福である。赦すことは赦された者にとっての特権である。(T1:Ⅰ27)
日々あらたに、毎日が、祝祭。
これまでの人生と呼んでいたものはぜ~んぶ、夢物語。 夢から目覚めたら、そこには・・・。 そんなきづきが、日々深まっている奇蹟の毎日に贈ることばを綴っています。
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