妙な情熱は、燃え尽きる。
静かなる情熱は、燃え尽きない、フリーエナジーだ。
思い出すというのは過去の記憶を思い出すというこまでの思い出す感覚とは違う。
思い出すというのは、上書きに近い感覚だ。
ほんとのなにかがほんとのなにかを上書きしていく。
間違った何かを取り消しながら、同時にほんとの何かが書かれていく。
それは、すでに書かれていたことが、思い出されていく。
ほんとうの情熱は、ある意味、神がかりだ。
何もしていないのに、それは思い出されていく。
「
情熱が燃えているときには、自分だけで行動しているのではないと感じる。 それどころか、自分だけでできることには何の意味もない。 情熱は創造的なエネルギーの波を呼び起こすから、あなたはただ「波に乗って」いけばいい。
」(エックハルトトール)
自力のほんとうの意味は、自を超えることに捧げるということなんだ。
超えたところでは、自はもう何もすることも、どこに行くこともない。
みこころのままに。
とはいって、何もしてはいけない、どこに行ってもいけないって言っているのではない。
「
情熱はあなたの行動にすぼらしい力を与える。 その力に触れたことのない人は「あなたの」成果を驚異と賛嘆の目で見るだろうし、その偉業とあなたを同一視するかもしれない。 しかしあなたは「私は、自分では何もできない」というイエスの言葉が真実であるということを知っている。
」
みこころに、明け渡す。 明け渡すとか、降参するっていうのは、自我にとっては、虚しい負けを想像して、負けるもんか!なんて反骨するかもしれない。 自我の声を信じてやってきたけど、いつも結果は、恐れとなっていった。表面上は笑っていてもいつもなにかに怯えていた。
この世の中で勝ち続けることなどない。 負け続けることもない。
勝負を超えたときに、勝負の意味が見えてくる。
ブッダは、56億7千万年後の未来にブッダが再来するといった。
キリストは、3日後に再誕した。
そうして、ユートピアは、未来にあるように見えている。 いつかあるその日のために人々は、時間の犠牲になる。 もう、すでに贖罪=救済は、終わっている。 いま、この瞬間にすべて在る。 それがすべて繋ぎとめる観念にすぎないと、見極める。 いま、この一椀のお茶が限りなく、愛おしく想う。
「 特定の場所(ときとところ)というのはないのである。ある意識の状態があるのみである。しかもわたしたちは今あなたとともに在る。このことをあなたたちが悟れば悟るほど、わたしたちはあなたたちの生活の中に行ってあなたたちを援助することができるのである。 」(心身の神癒)
「祈って求めるものは、何でもすでに受け取っていると信じなさい。そうすれば、その通りになる」。
それはどこか遠くに離れたところには、ない。 探し続けるのをやめたときに、わかる。
求め続けるのをやめたときに、わかる。
もう、すでに受け取っている。
もう、すでに完了している。
それが真実だ。
そうして、内なる分離が癒されたときに、人ははじめて外とほんとうにかかわることになる。
そこで起こっていくことが新しい世界だ。すでに書かれているけど、何かが書かれているかはわからない。あなたに大切なことは、みこころのままにゆだねたら、何が起こるかは、好奇心をもって予期することだけだ。
「
新世界はユートピアではない 新しい地というのは、もう一つのユートピアにすぎないか? そうではない。 あらゆるユートピアのビジョンには一つの共通点がある。 すべてがうまくいき、すべてが守られ、平和と調和が実現して、問題がすべて解決する未来が描かれていることだ。 ユートピアのビジョンはたくさんあった。 一部は失望に終わり、その他は大惨事につながった。 すべてのユートピアのビジョンの核心には、古い意識の構造的な機能不全が横たわっている。 救済を未来に求めているのだ。 未来はただあなたの心のなかの思考として存在するだけで、救済を未来に求めるなら、無意識のうちに自分の心に救済を求めることになる。 つまり形に、エゴの罠に落ちる。 「私は新しい天と新しい地を見た」と、聖書の預言者は書いた。 新しい地の基礎は新しい天――目覚めた意識――である。 地――外部的な現実――は、意識の外部への投影にすぎない。 新しい天が生まれ、新しい地が実現するということは、私たちを解放してくれる未来の出来事ではない。 何ものも「将来」私たちを解放してはくれない。 なぜなら、私たちを解放するのは、現在のこの瞬間だけなのだから。 そこに気づくこと、それが目覚めである。 未来の出来事としての目覚めなど、何の意味ももたない。 目覚めとは「いまに在る」状態に気づくことだからだ。 だから新しい地、目覚めた意識は、実現すべき未来の状態ではない。 新しい天と新しい地は、いまこの瞬間にあなたのなかに生じている。 いまこの瞬間に生じていないなら、それは頭のなかの思考の一つにすぎず、したがって生まれ出ることもない。 イエスは弟子たちに何と言ったか? 「神の国はあなたがたのなかにある」。 イエスは山上の垂訓である預言をしたが、いまに至るまでその預言を理解した人はごく少ない。7 イエスはこう言った。 「柔和な者は幸いである。その人は地を受け継ぐから」。 いまの聖書では、「柔和な」とは慎ましいという意味だと解釈されている。 柔和な人、慎ましい人とは誰なのか、そして彼らが地を受け継ぐとはどういう意味か? 柔和な人とは、エゴのない人だ。 自分の本質が意識であることに気づき、その本質をすべての「他者」、生きとし生けるもののなかに認める人だ。 彼らは慎ましく大いなるものに身を委ね、それゆえに全体及びすべての源との一体感を覚えている。 彼らは自然を含め地上の生命のすべての側面を変えようとする目覚めた意識そのものだ。 地上の生命(人生)は、生命を認識し生命と相互作用する人間の意識と不可分だからである。 それが、柔和な者が地を受け継ぐということだ。 たったいま、地上に人類の新しい種が生まれようとしている。 あなたもその一人だ! 」(エックハルトトール)
そして、これもまた観念にすぎない。読んだらそれらはすべて赦されていく。
囚えることが幻想の本質だからこれに囚われる必要もない。
聖霊は、あなただけの守護神ではない。
誰のこころのなかにもそれはすでに在りつづけている。
そして、誰のこころのなかにもある聖霊存在を感じることが慈悲の実践なのだ。
すべてをその存在とともに手放していくことで、すべては与えられる。
手放すことは、失うことではない、受け取ることなのだ。
聖なる対話は、こうして繰り広げられていく。
日々あらたに、毎日が、祝祭。
これまでの人生と呼んでいたものはぜ~んぶ、夢物語。 夢から目覚めたら、そこには・・・。 そんなきづきが、日々深まっている奇蹟の毎日に贈ることばを綴っています。
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