なにかを得るためには、何の犠牲もいらない。

社長は、資金繰りを第一に考える。

社員を守る、という信念から、いよいよ八方塞がりになったときに、何かを犠牲にする。

そして、社員を守っても、社員は守ってくれないということを目の当たりにする。

大きい場合は、命そのものを、そして健康や、人間関係、キャリアもときは犠牲にしてそれを乗り越えようとする。肥大化した戯我は、こうして機能不全に陥る。

闘うか、逃げるかのどちらかを綱渡りするスリルな人生、ジェットコースターのような人生を、生きているという実感って勘違いしていた。

そして、どうしようもなくなってときに深刻になって結果を変えようともがいていた。

結果には、変える力はない、だから結果をいくらいじくってもまた新たな問題をこしらえるだけとなり、またもがいていくというループに陥る。変える力はいまこの瞬間にあるのだ。

ほんとうは、いまこの瞬間に、その原因である内なる信念に向ければいい。

でも、現実(幻想)で悪戦苦闘しているときは、その現実(幻想)にどんどん巻き込まれていく。

蜘蛛の巣にひっかかった獲物のように。


何かを達成するためには、大切なことを犠牲にしなればならない、


というのが罪悪感から来る、最初の信念なんだ。 

いま、ここで、この信念を取り消そう。

そして、こしらえたのがあなた自身なのであなたが取り消せなかったら、ただその信念をみつめて、感じてみよう。そして、もうすでに愛とともに達成したいとささやかな意欲を差し出そう。

 

 なにも、諦める必要もない。

 「誰も失わず、誰もが益する」。 

「どんな状況も、あるがままに楽しむだけでいい」。

そんな都合いいことなんてあるはずはない、楽しんでる場合じゃないって偽我がいう、そして深刻になりたがる。

せっぱつまりたくなれば、足りないものは奪い取れとか露骨な思考もでてくるかもしれないね。

そして世の中をのぞき込み、なぜならをいくらでも並べ立てるでしょ? 

うっかり信じてしまってはダメだよ。 

人は信じているものを信じているように見ようとする。 

何かを得るためには何か犠牲が必要だ。 

それって本当?

その誤った思考をいまここで手放そう。 

手放すことで、何も失うことはない。 

偽我も偽我のままでいい。 

 そして、手放して得る気楽さを、偽我に一度味わってもらおう。 

微笑んで深刻にならず、正直にありのままに、観よう。

断捨離ってあるけど、得るために捨てる、はいらない。 

ほんとうの断捨離というのは、囚われない、抗わない、明け渡す、という結果であって、それが原因でない。いまある問題の原因は、得た物にはないんだ。 

 だから、断捨離と取引するのをやめよう。 

 断捨離するからこれちょうだいという取引を。 

真理は、取引がない、いま、ここにきづくだけで、不満は去り、満足がやってくる。 

 「

 奇跡の内容として知覚されるものは、全一性である。そうして奇跡は欠乏という誤った知覚を訂正する。すなわち贖うのである。 

」(T1:Ⅰ41) 

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日々あらたに、毎日が、祝祭。

これまでの人生と呼んでいたものはぜ~んぶ、夢物語。 夢から目覚めたら、そこには・・・。 そんなきづきが、日々深まっている奇蹟の毎日に贈ることばを綴っています。