みこころのままに

 みこころは思考の戯言ではない、天啓だ。 

「カタカムナのウタヒ」(上古代語)のなか、三三首。 

 カムナガラ エヒメ サヌキヂ アワ トサヂ アメノオシコロ オキミツゴ ツクシ トヨウケ ヒノクニ クマソ イヤシロチバ イキツサキヨリ イヤシロ コト サトリ


 サヌキと、アワ。 


サヌキの性は、一方的、独善的、攻撃的、動物性、主観的、現象系、(外交的)であり、自己中心的である。 アワの性は、受容的、依存的、柔軟性、親和性、植物性、客観的、潜象系(内観的)であり、環境適応性である。(関川二郎『カタカムナへの道』) どっちがいいとかわるいではなく、 「自分の生命の支配者は自分だ」という自力の感覚を持つ者は「サヌキ型」思考の持ち主であり、「自分は人間以外の大きな力によって生かされている」という他力感覚を持つ人はアワの性の潜象感によるもの。 現代社会は、あまりにもサヌキ本位に傾きすぎた感がありませんか? 

見えるものがすべて、勝つか、負けるか、ふたつにひとつ。 

生命のあるがままの姿は、相互依存的。 みこころのままに、は、何を決めるのも、みこころとともに決めるということでもあるかもしれません。  

自力か、他力か、勝つか、負けるか、生きるか、死ぬか、ふたつにひとつ、からの解放。  

愉快で、気楽な世界。  

サヌキとアワがいかしあう。 ふたつがひとつ。 

サヌキのなかにアワがあり、アワのなかにサヌキがある。

 目に見える男性、女性のなかにも男性のなかにも女性があり、女性のなかにも男性がある。 ふたつにひとつ(分裂)でなく、ふたつがひとつ(統合)に。 それがみこころのままにという在り方なのかもしれませんね。 恐れのシンボルとしての偽我、愛のシンボルとしての聖霊。 みこころ、を恐れから観るか、愛から観るかで、その結果は自ずとわかりますね。 もう、できることなど、なにもありません。 聖なるちからにすべてをおまかせします。 

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日々あらたに、毎日が、祝祭。

これまでの人生と呼んでいたものはぜ~んぶ、夢物語。 夢から目覚めたら、そこには・・・。 そんなきづきが、日々深まっている奇蹟の毎日に贈ることばを綴っています。