愛一元。

過去の恐れからなにかを作るのは、もうや~めた、なんて思ったのにその途端から、過去帳を開いて、ああだこうだがはじまる。 

過去に照らし合わせ、これは、こうだ、ときめつけ、あれは、ああだと解釈する、「思考の働き」。


 「 「感受」と「判断」の働きはアメーバから人類まで、あらゆる生物に具わっているが、人間のみがその経験を「記憶」と呼ばれる作用によってサンカーラに蓄積(脳の細胞の中にシナプスを結ぶことで)して置き、それが次の「刺激」があった時に「判断」を行う上での「参考の質」(テラスもの)として活用される。 」(関川二郎『カタカムナへの道』) 


過去帳は、あなた自身の六法全書だ。 過去帳にテラシあわせて、あなたはいつも物事を価値判断し、咎め、裁いている。 ほんとうのあなたは、いまこの瞬間に生まれたばかりの更なるあなただ。 そこに過去参照があっても、それに囚われない、抗わない。 過ぎ去ることを、過ぎ去るままに。 閉塞感から解放されるときだ。 


 価値判断をしているのは誰? 

その私は、誰?

意識を向ける方向はこうして逆転する。 


答えが大切なのでなくて、思考を逆転することが大切なんだ。 


 「 我々は日々刻刻ほとんど無意識のうちに「自己の内心に持っているもの」に照らして価値判断をしている。「内心に持っているもの」とは幼児期以来脳に結びついてきた様々な「経験・智識」である。 」 


 それをしているのは、誰だろうと「問いかける」だけで、思考が逆転する。 


この問いかけは、さっきの問いかけはもうなく、いまこの瞬間の無垢なといかけだ。


覚めたきづき。


わたしはありてあるものである。  

無意識に判断しつづけるくせが、苦悩の原因だ。 

思考が逆転するということは、この、無意識の判断ぐせを解体していく。 


聖なるこの瞬間を無垢に、観るだけで、これは、起こる。


 「人間は我執や汚れを捨てれば正覚して真人になれる」 


でも、捨てようとしてもそれは捨てることはできない、


捨てようとしているものが捨てる主体というパラドックス。

だから、ただ、そうしようとしている誰かを、ただ、観よう。 

裁かず、咎めず、観る。 

価値判断なく、観る。 

静かに穏やかに冷静に、観る。 

微笑みながら深刻にならず、観る。  

何度でも、何度でも、いつも新しい生まれたばかりのあなたが観る。  

そして、(過去の)あなたは、もう、いない。 

 わたし、が、在る。 

イノチのヌシが、在る。


 「 本来、「生命現象」というものは人間も他の生命も、あらゆる万物万象に普遍のものである。人間も当然のことながら宇宙の生物として他の一切の生物と共通の物理に支配されている。宇宙の中で「地球上の人間だけを特別に守ってくれる神」が存在すると考えること自体が、そもそも人間の身勝手な独断である。しかるに、そうした神があると決めてかかり、その神の真理が一度世に出れば何千年も続いた闇の夜が明け、世界は平和になり人類が救われる等と勝手な拡大解釈をつけ、まるで魔法か忍術の秘伝の巻物の如きものが存在するかのように考えるのは大真面目の戯言である」(関川二郎『カタカムナへの道』) 」  


奇跡講座でいう「特別な関係」でいう、偶像崇拝。思考がこしらえた二元の神。共同幻想。 愛は一元。 愛憎には、愛してくれたら愛してあげるという取引がある。 それはいつか憎悪にかわる。 愛は一元。 ただ、愛だけがある、愛するとか愛されるは、そこにない、ただ愛そのものが延長される「聖なる関係」。 

 愛、が、在る。 

イノチのヌシ=愛が、在る。 

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日々あらたに、毎日が、祝祭。

これまでの人生と呼んでいたものはぜ~んぶ、夢物語。 夢から目覚めたら、そこには・・・。 そんなきづきが、日々深まっている奇蹟の毎日に贈ることばを綴っています。