愛にすべてが包まれている、愛が内に輝いている、求めることをやめたときに、探すことをやめたときに、愛に目覚める。
愛は、物語のなかにはない。
物語のなかにあるのは、いつも愛憎のある愛だ。
そこには、いつも葛藤がある。
逃げてきて助かったからよかったという思いと、逃げ切れなかった人たちへの後ろめたさ。
人生の本質は、いち抜けた~、はないってこと。
分離感を、現実を信じ込んでいるうちは、必ずそこには、悲哀がある。
強がったって、それは虚栄にすぎず、悲哀の裏返しだ。
分離などしていなかったと、いう真理を受け容れること。
それは自我にとっては耐え難いことだ。
やっとこさ、神から離れたというのに、これから神に変わって世界を創ろうと思ったのにそんなことができるか、と、自我はいう。
でもそれは戯言なんだ、自我のいうことはすべて幻想。
過去のポンコツの寄せ集めさ。
だから、忘れよう、自我のいうことは、ひとつ残らず、忘れよう。
そして、根源からの波長にあわせてみよう。
わたしは愛を攻撃したことはないし、いまでも愛のなかに生かされている。
生老病死もまた、幻想だ。
生老病死という物語を通して、人は、何かを学んでいると錯覚している。
生老病死から目覚めよう。
源泉を、自覚しよう、われにかえる、というのは、幻想に還ることでなく、実相に還ることだ。
このパラドックス、幻想に還ろうとするのは誰なのか?
その瞬間を感じてみよう。
こころのなかが爆発するとき、外の世界も爆発する。
こころのなかが隆起するとき、外の世界も隆起する。
だから、いつも還りなさい。
その源泉へ。
日々あらたに、毎日が、祝祭。
これまでの人生と呼んでいたものはぜ~んぶ、夢物語。 夢から目覚めたら、そこには・・・。 そんなきづきが、日々深まっている奇蹟の毎日に贈ることばを綴っています。
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