思考の99%がゴミだ。 あと1%の思考もゴミだ。
思考は、過去の遺物だ。 思考は、創造することはできない。
いつも真似事だ。
過去は糞。
思考は、ほんとうの思考を知らない。
ほんとうの思考は、創造ができる。
それはカムの意思だ。
これまで学んできたことは、思考に頼ってこしらえてきた糞。
だから、いまここで、過去の一切を忘れよう。
でも、いいこともあった。
そのいい/悪いと分別するこころが苦しみを産んでいるんだ。
だから、いまここで、過去の一切を忘れよう。
自らがおおいなるなにかから分離することを望んで、 分離したことを信じて、創造する力がないのに創造しようとする。
あなたは、カムでなない、だからいつも不足しているし、欠乏感があるのだ。
あなたは、カムが創造したままの完璧なあなただ。
完璧な自分、完璧だと偽ろうとする自分。
そして、隠そうと、人は何かに依存する。
アルコール、たばこ、チョコレート、買い物、何かに目を背け、何かを誤魔化し、生きていく。
生老病死から目を背けながら、それに抗っていく。
矛盾、葛藤、憂鬱。
そして、人は、だんだん見えるものから正当化できる何かに依存しはじめる。
仕事に依存する、だって仕事ができる自分はえらいでしょ?
インターネットに依存する、だって何でも知っている自分はえらいでしょ?
テレビに依存する、だって世間が知っていることはわかちあいたいでしょ?
愛情に依存する、だって、欠けてるものを補いながら生きるって素敵でしょ?
そして、思考に依存する。 悲劇のヒロインを演じる、犠牲のヒーローを演じる。
世間は、ゴシップに溢れている、被害者ー加害者の物語が次から次へと走馬燈のように、過ぎ去っていく。
カムは、何も、犠牲にしない。
カムは、すべてすでにもちあわせているのだ。
カムの創造の力を神から取り戻し、思い通りの人生を生きたい。
思い通り。 その思いは、外の比較から手繰り寄せたものだ。 だからそれは「欠乏」のシンボルだからいくら得ても奪った後ろめたさを引きずりながら、欠乏感が消えない。 具体的な何かから決してほんとうの満足に至らない、
理由は、ここにある。 思いを神に還す。
思い通りという虚偽から目覚める。
すると、その思いは、神の意思は、わたしの意思であったときづく。
愛の延長だ。
至福の延長だ。
可能性の開花だ。
人生に必要なすべて――ひと、もの、かね、情報のご縁とタイミング――は、すでに与えられている。
だから、いまこの瞬間、瞬間に、おもいっきり楽しめばいい。
宇宙は、太っ腹だ。 永遠に餅が降り注ぐ。
ある日、狂った思考が「この餅いつかなくなるから、溜めておこう」といった。
溜め始めてから、わかちあいをしなくなった。
われだけ、よしが横行しはじめた。
食べてはならない、果実を食べて、思考は眠りについた。
永遠かと思われたその眠りに、 今、目覚める、
この恩寵。
ただ、偽りの思考を信じるのをやめるだけで、それがやってくる。
そして、また宇宙は、黄金餅を、世界中に降り注がせる。
枯れ木に花が咲き始める。 聖なる瞬間に目覚めたときにそれは起こる、
これを奇跡という。
日々あらたに、毎日が、祝祭。
これまでの人生と呼んでいたものはぜ~んぶ、夢物語。 夢から目覚めたら、そこには・・・。 そんなきづきが、日々深まっている奇蹟の毎日に贈ることばを綴っています。
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