いろんな人生を生きている。
いろんな人生が生かされている。
人と比較する。 過去と比較する。
そして、もっと、もっと、追い求めてきた、過去。
もう、このあたりで、比較するのをやめよう。
あるがままに、生かされていることに、感謝しよう。
と、決めても、また、何かと比較する癖が顔を出す。
なんか永遠にもぐら叩きゲームをやっているようで、疲れてくる。
なにか別の見方があるはずだ。
聖なる比較がやってくる。
みたこと、きいたことの比較は、なにも意味がない。
だって、みたこと、きいたことは、もう終わっていること(幻想)だからだ。
終わっていることは、終わっていることにまかせてあなたは手をひきなさい。
はじまっていないことは、はじまっていることにまかせてあなたは手をひきなさい。
みたことも、きいたこともない、それとの比較が真理の扉をひらく。
それとの比較は、感じることでしか知ることができない。
みたということは、みたそのものでない、みたという記憶だ。
きいたということは、きいたそのものでない、きいたという記憶だ。
記憶は何も解決しない。 記憶は何も創らない。
記憶は、鎖になるだけで、役立たない。
なんで、いつもこうなってしまうんだろう。
って思ったこと、ありませんか? これが、そのサインです。
でも、その最中には、「いつもこうなるプログラム」を再生していることさえ気づきません。
「いつもこうなるプログラム」そのものが、あなたになっているからです。
そこで、聖霊は「助け舟」を差し出します。
「きづき」という助け船を。
「いつもこうなるプログラム」に夢中のときは、意識は外へ、外へ、外の何かをいつも裁き咎め、決めつけては、また外の何かをいつも裁き、咎め、決めつける。 何かに恐れて、それがやめれない、なんとか中毒のように、咎めループが回り続ける。
そして、いつか、「きづく、瞬間」がやってくる。
そこで、闘いは終わる。
咎めることで咎めることにエネルギーを与えて、また咎めるということを、無意識でやっていたこと、それがこの閉塞感のわけだったことにきづきます。
赦す。
これがきづきの別名です。
最初は意識して赦す必要がありますが、そのうち「赦しプログラム」は自動稼働していきます。
だからまずは赦すことからはじめよう。
「いつもこうなるプログラム」は、こんなでかいこと赦すことはできないとか、こんな難しいこと赦すことはできないなってこんなことを過大解釈したり、過小解釈したり、しながら「いつもこうなるプログラム」を維持しています。
「いつもこうなるプログラム」の結果は、いつも「恐れ」です。
「恐れ?そんなの望んだつもりはない」と思っても、そうなるから不思議です。
やめたいけどやめられない、恐れ中毒。
そこで、赦す。
赦すは、万能薬です。
どんあ大きくみえることも、どんな頑強にみえることも、どんな恐れもつつみこみ、その中毒は、必ず、終わります。それに依存しなくていいようになります。 もう、こんな苦しんだんだから、やさしくしてあげてやりなさい。
は、苦しんだことをあったから、もう苦しみたくないという反応をするからまた苦しんだことを再生するというカラクリです。
その苦しむが、ただのプログラムであって、ほんとうはなかったということに気づくこと。
これがほんとうの「赦し」なのです。
「
奇跡に難しさの序列はない。一つの奇跡がもう一つの奇跡よりも「難しい」とか「大きい」ということはない。すべての奇跡は同じである。愛はすべて最大限に表現される。
」
(T1:Ⅰ1)
日々あらたに、毎日が、祝祭。
これまでの人生と呼んでいたものはぜ~んぶ、夢物語。 夢から目覚めたら、そこには・・・。 そんなきづきが、日々深まっている奇蹟の毎日に贈ることばを綴っています。
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