愛が取引の材料となると、それが特別になり、もっともっとといろんな条件が次々と出てきていつかそれは満たされなくなり、愛は憎しみにかわっていきます。
美が取引の材料となると、それが特別になり、もっと、もっとといろんな条件が次々と出てきていつかそれは満たされなくなり、美は醜さにかわっていきます。
善が取引の材料となると、それも特別になり、もっともっとといろんな条件が次々とでてきてやがていつかそれは満たされなくなり、やがて偽の善となり、それは悪になってくる。
よかれと思ってやってきたことも、押し付けていくうちに、余計なお世話になるんだ。
バランス。
偏らない。
中庸。
何かに偏り過ぎるのは危険なんだ。
やがてそれは振り子のように逆にふれていく。
そこには根底には罪悪感がある。
何かをしたから罰せられるというと何かをしなければいいというだけになるけど、理由なき罪悪感には対処できないよね。
でも、人は、その理由なき罪悪感という物語を引き受けて生まれてくる。
裁かない、咎めない。偏らない。判断しない。
という一つを二つに分別しないというこころがその理由なき罪悪感から理由なき愛に変わる扉の鍵になるんだ。
それが愛そのものになると、まだ、分別のいったりきたりの振り子ゲームが続くけど、やがて、その動きはゆるかやかに、止まり、森羅万象すべて愛のあらわれにかわっていくそうですですよ。
オセロゲームが白黒勝負をつけようとしていくうちに、全部が透明になっちゃったみたいな。
映画館で、格闘劇に夢中になっていたら、いつかそのスクリーンそのものになっちゃったみたいな。
有と無はたがいに生まれ。
難と易はたがいに補いあい。
長と短はたがいにそれぞれの位置をしめ。
高と低はたがいに矛盾し。
声と音はたがいに調和しあい。
前と後はたがいに順序をもつ。
片方が片方に一方向で依存するのでなく、
相互に依存しあって、調和するという世界。
問題のなかに答えが在る。
あなたがわたし。
わたしがあなた。
一如。
聖霊は、いつも無為自然。
為さずとも、為ることを知っている。
調和といういのちにはたらきのなかでいかされていくとき、 自ずと、そうなっていく。
何もしない、じっと見守っている、
聖霊(^^♪。
でも何もしないから最適な動きが起こるというパラドックス。
森羅万象は、完全に満たされています。
森羅万象は、完全に歓びで満たされています。
不平不満をいうのは、偽「者」だけです。
何もしないときに、一番よい行為が起こります。
努力がないときに、一番よい仕事が起こります。
踊り手がいないとき、一番よい踊りが起こります。
演技者がいないとき、一番よい演技が起こります。
「者」がいないときに、それは、自ずと、起こります。
物事が繁栄していっても、所有者はいないとき、繁栄が続きます。
仕事が成し遂げられても、それに自慢なく頼らないとき、おかげさまでとこころから思えるとき、卑下が謙虚となり、その謙虚が徳ななってまわっていきます。
おかげさまだから、達成されても、名声をもとめないし、達成されなくても、咎めがない。 認められなくてもいいから、成功はつねにそこにある。
認めらようと、こうしたい、ああしたいを手放すから成幸がつねにそこにある。
このしずかなるよろこび。
妙なよろこびは、過ぎ去り、また起こっている。
しずかなよろこびは、微笑みながら、いつもそこに在る。
「
奇跡は愛の表現として自然に起こる。真の奇跡とは奇跡を喚起する愛そのものである。この意味において、愛から生じるものはすべて奇跡である。
」(T1:Ⅰ3)
日々あらたに、毎日が、祝祭。
これまでの人生と呼んでいたものはぜ~んぶ、夢物語。 夢から目覚めたら、そこには・・・。 そんなきづきが、日々深まっている奇蹟の毎日に贈ることばを綴っています。
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