一陽来復。
陰極まり、陽に転じる。
ふくがきた。
陰に在るときは、治めようとしても、 どうにもできないことをわたしは、知っています。
こんなときにはどうにかしようとすればするほど、その逆になっていきます。
そして、拘れば、拘るほどに、結果、それは離れていき、失います。
だから、静かにして、うちなるちからを滋養します。
インナーワークに徹します。
インナーワークが深まり、静寂が極まるとき、無垢な活動がはじまります。
天の時、地の利、人の和がひとつになるときに、それがはじまります。
天命に根差した活動です。
インナーワークを経て、深く、深く、根差して、不動不惑になる。
それは生まれた時に約束してきた神のシナリオ。
普遍意識という神のシナリオ。
既に書かれていることには抗えない、勘違いが、抗いを起こしていく。
そういう理解から、もう、すでに書かれているのだったら、気も楽になり、これでいいのだ、あれもいいのだ、何事もまるごとつつみこむ。
あほになる。
深刻劇は、新喜劇になる(笑)。
何とかしようとしない。
何かをすれば、他方はまねる。
穏やかになれば、他方の鼻息は荒くなる。
精力的になれば、他方はおとなしくなる。
一方が背負えば、他方は、失う。
だから、極端な行いから退き、あるがままにまかせる。
いかしあう。
抗うことをやめて、何かになろう、何かにかえようというあるがままの否定をやめたとき、
ありがままそのまま任せるとき、神のシナリオは再開される。
聖なる瞬間があちらこちら、すべてにしみわたっていく。
森羅万象はそこにとどまり、さらに根を張っていく。
そして、そこから見捨てられたり、締め出されたりは一切ない。
聖なる瞬間から離れるとき、罪と恐れが蘇り、聖なる瞬間にとどめるときは、罪と恐れは消え去る。 仕事を完成しても功績を求めない。
森羅万象を養ってもそれらを支配することはない。
すべての意図や都合から自由からからそれを押し付けることもしない。
ただ、神のシナリオを演じているだけだと、わかっているから、偉そうにもならない。
すべては、神からの借り物だとわかっているから、わが物にしない。
ほんとの偉大な事業は、上辺だけの尊大さではない。
ほんとの偉大な事業は、身の回りのささいなすべてをていねいに扱うことにある。
ここから、その偉大さが達成されるのである。
「
奇跡とは習慣であり、意図せずに起こるべきものである。意識的な制御下に置かれるべきものではない。意識的に選択された奇跡は間違った方向に向けられることがある
」(T1:Ⅰ5)
日々あらたに、毎日が、祝祭。
これまでの人生と呼んでいたものはぜ~んぶ、夢物語。 夢から目覚めたら、そこには・・・。 そんなきづきが、日々深まっている奇蹟の毎日に贈ることばを綴っています。
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