的を見るのでなく、目を閉じて、こころの目で感じよう。
興味を、外へ、外へ、そして「獲得」してきた「学び」が知識だよね、
逆に、興味を、内へ、内へ、そして「手放し」てきた「明け渡して」きた「きづき」が目覚めなんだ。
忘れることは、きづきの入り口。 忘れることは、
汚れているように見えたそのものが、汚れてなどいなかったという理解だ。
理解は、獲得するものでなく、忘れることでおのずと起こる。
失ったように、見えていたことが、失ってなどいなかったことがわかる。
それを、ほんとうの満足というんだ。
何かが満たされたから満足するのでなく、そもそも不満など嘘、だったって見極めること。
この瞬間が、この瞬間に、この瞬間で在り続ける、いまいまいまいまいまいまの瞬間のいまいまいまいまと永遠に生き続ける、さっきのいまは、いまのいまでなく、明日のいまでもない、いまだ。
あつめようとしたければ、分散しておけばいい。
強めようとしたければ、弱めればいい。
加勢したければ、去勢すればいい。
得たければ、すでに与えられているということにきづけばいい。
奪う必要はない、すべてあることにきづくだけでいい、それがほんとうの豊かさだ。
見えないひかりから、うまつづけている、それ。 柔らかいものは剛いものに勝ち、弱いものは強いものに勝つ。
柔らかなものが地を引き継ぐだろう。
深海の泳ぐ魚のように、 ほんとのちから、は、見えないところにある。
見えてることはすべて嘘で、ほんとうのことは、見えない、聴こえない。
見るという思考は、実際に見ることはできない。
聴くという思考は、実際に聴くことはできない。
見るという記憶、聴くという記憶に過ぎない。
ほんとうのことは、見ようとしなければ、ただ見え、聴こうとしなければ、ただ聴こえてくるのです。
今、そのことを考えなかったら、何も問題はないじゃないか?
考えない。 求めない。 探さない。
ただ、これだけですべては透き通っていく。
「
奇跡はすべての者の権利であるが、まずははじめに浄化が必要である。
」 (T1:Ⅰ7)
日々あらたに、毎日が、祝祭。
これまでの人生と呼んでいたものはぜ~んぶ、夢物語。 夢から目覚めたら、そこには・・・。 そんなきづきが、日々深まっている奇蹟の毎日に贈ることばを綴っています。
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