「一」 から、「一」は生み出される。
みえない「一」のなかに「一」という想いが起こり始めるとき、
「一」から二つのものが生まれ、二つから三つのものが生まれ、 三つから森羅万象が生み出される。
ひ、ふ、み、よ、い、む、な、や、こ、と。
森羅万象が、転がりいずるんだ。
想い、それは思考ではない、想いは、思考の源だ。
みんなの思いは、思考だ。
考えることは、原因ではなく、結果だ。
結果にちからはないんだ。
「思考は現実化する」って聞いたことはない?
この現実化にはいつも裏が潜んでいるんだ。
喜怒哀楽。
喜びには怒りが潜んでいて、哀しみには、楽しみが潜んでいる。
どちらかが現実化したらそのうち、すでにその逆も創造している。
創造したものは、もう取り消せない、
結果には取り消す力もないし、
またさらなる何かを作り出す力もない。
これが低次の創造なんだ。
補いあうのでなく、奪い合う関係が、創られる。
特別な関係。
ほんとうの思考は、観ても、観えないし、言葉で表現することもできない。
思考の源だ。
因果の因。
これは「フィーリング」なんだ。
形になって見えないから、なにかそこには力がないと思えるかもしれないけど、無限の力を発揮する。
原子力、
量子場。
すべてみえないことが大きく作用する。
これが、高次の創造。
知っていることを信じるのではなく、わかっていることに、想いをのせる。
原因を観る。
起こっていることでなく、起こっているその源を感じる。
すると、起こっていることは自ずと変容していく。
変容もまた、高次の創造だ。
変容には裏がない。
奪い合うこともない、
ただ、わかちあうだけだ。
だから一切の犠牲もない。
聖なる関係。
聖なる錬金術師は、聖なる観照者だ。
錬金、観照そのままでは、何も創らないけけど、そこに「者」が在ると、それは創られる。
想いを観照すること。
ふと思いついたことを見つめること。
その想いにきづくこと。
観察者意識。観たいものが見える世界。
その想いを、解釈しない、変更しない、消そうとしない。
ただ、観る。 観る、が立ち上がる。
咎めず、裁かず、観る。
価値判断をせずに、観る。
静かに、穏やかに、冷静に、観る。
微笑みながら、深刻にならず、観る。
しつこいようだけど、創造の秘密は、想いを観る、ただそれだけだ。
想いの結果を観るのでなく、想いの原因を観る。
シンプルなこと。
何も、難しくはない、難しくしているのは、結果の思考だということにきづこう。
簡単だ。 ちちんぷいぷいっていう前からそれは決している。
奇跡は、魔術ではない、魔術以前だ。
魔法を超えている。
奇跡は、原因であり、魔術は結果だ。
結果には力がない。原因にこそ、無限の創造性、無限の可能性は、籠っている。
途轍もなさゆえに、それは怖い。
でも、その怖いは、みなこともない、という怖さ。
過去参照をやめるとき、ほんとうの創造力が目覚める。
再現性は、過去参照で十分だ。
過去を再現しない新しい世界には、過去参照は邪魔になる。
成功体験を捨てなさい。
失敗体験も捨てなさい。
無垢に、
ただ、無邪気に、
生を愉しみなさい。
「 奇跡とは想念である。想念は、低次元すなわち肉体レベルの経験を表象することもできるし、高次元すなわち霊的レベルの経験を表象することもできる。一方は物理的なものを作り出し、他方は霊的なものを創造する。 」
(T1:Ⅰ12)
日々あらたに、毎日が、祝祭。
これまでの人生と呼んでいたものはぜ~んぶ、夢物語。 夢から目覚めたら、そこには・・・。 そんなきづきが、日々深まっている奇蹟の毎日に贈ることばを綴っています。
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