いまここにじっとしている物は手を差し出すだけで受け取れる。
兆しは見え始める前なら、容易に扱える。
氷のように、固くてももろい物は、すぐ溶けていくし、
ちいさな物は、簡単にまき散らすことができる。
潜象・・・それがまだ表に現れないうちに,事を感じ、見つめ、扱い、
混乱は、芽のうちに、摘み取っておく。
過去は幻想だ。
未来もまた幻想だ。
過去は顕れたかのように見えた。
未来は顕れるかもように見ようとする。
前進しているようにみえることは、後退していて、
後退していうように見えることは、前進している。
魂の闇夜は、光明溢れていて、光明は、闇のなかに溶け込んでいく。
時間は、未来から今に流れていき。
裏が表に顕れる。
すべて逆さまになって、整っていく。
調和は、ひとつの現れだ。
それぞれいろんな現れがあるように、見えるけど、それらがすべてで調和する。
俯瞰する。
眺める。
この瞬間に立脚して、感じてみる。
すると、今見えていることは、ほんの点であって、全体ではないことにきづきながら、 点のなんかに全体が含まれていることにもきづく。
豊かであろう。
幸せであろう。
健やかであろう。
嬉しくあろう。
愉しくあろう。
これがほんの一瞬でも、それが過去を洗い、未来が輝く。
そのきづきになるから。 選びなおそう。
そして、カルマ(という幻想)が、なかったことに気づく。
気づくと、今が変わる。
過去は過去にまかせなさい。
未来は未来にまかせなさい。
あなたは、ただ、この瞬間に、選びなおすだけでいい、整えるだけでいい。
両手で抱えるほどのおおきな木も、はじめは小さな芽から育ってそうなり、多重に重なる高台も、小さな土のひと盛りから始まる。
千里の旅も、このはじめの一歩から始まる。
そして、旅のおわりにこのはじまりに還ってくる。
人は、物事を為そうとしては、ダメにして、為すことを手放せば、それは為る。
探そうとしても、見つからず、捕まえようとして、取り逃がす。
この瞬間は、探しても見つかれず、掴んでも、掴めず、求めても、得られない。
聖霊は、物事を為そうとしないので、ぶちこわさないし、 無理に捕まえようとしないから、取り逃がすこともない。
何も手柄にしないし、手柄はすべてあなたに差し出してくれる。
人々がよくやることは,よく完成間際というときになって,だめにしてしまうものだ。
夜明け前が一番暗い、成功の寸前が、最悪に映る、
いったん悪くなってから良くなる。
だから、その兆しに右往左往反応するのでなく、兆しをただこころで感じてみなさい。
それが、本当に凶ならば、感じるだけで、難は薄れやがて消える。
そして、本当は吉だというときは、感じるだけで静かな喜びに包まれる。
感じることは奇跡だ。
感じることは赦しだ。
ただ、受け取ることなく、受け入れる。
ただ、つかむことなく、見極める。
始めるときと同じように,終わりになっても注意深くあれば,失敗は防げるのだ。
結果への期待、次への欲望・・・いろんな迷妄をただただ見極めていく。
分別することなく、それらを見極めていく。
すると、解釈することなく、洞察という理解が起こってくる。
聖霊は、(世人のような)欲望を持とうなどとはしないし,また得難い財宝などには目もくれない。無学なままであるただしいこころを選び, 大衆が間違ったこころを選んで失った(忘れた)以前の状態に引き戻す。
かくして聖霊は、「自然」の営みを助けて,それを裏切ったり見捨てたり邪魔だてしようなどとはしないのだ。
「
奇跡ははじまりでもあり終わりでもあり、それゆえに、時間系を変更する。奇跡は常に再生の肯定であり、後退するように見えるが実際には前進する。それは現在において過去を取り消すので、未来を解き放つ
」(T1:Ⅰ13)
日々あらたに、毎日が、祝祭。
これまでの人生と呼んでいたものはぜ~んぶ、夢物語。 夢から目覚めたら、そこには・・・。 そんなきづきが、日々深まっている奇蹟の毎日に贈ることばを綴っています。
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