こころの禊(みそぎ)って、もう苦行はいらないってきづくことなんだ。

年末押し迫ってきたけど、年末という物語もまた、一休み。

こころをそのまんなかに、鎮めて、気持ちをひとつにしてみよう。

あれやこれや、あっちこっちに惑わずに、耳で聞くのでなく、心で訊こう。

そうそう、心で訊くのでなく、氣(フィーリング)で訊いてみよう。 

耳で聞くのを止めて、また、あれやこれやと心で思い描くのも止めよう。 

止めるといっても、それは閉じることではないんだ。

からっぽにして、すなおに、外へひらいておこう、

すべてを受け入れて自由になろう。

受け入れることと受け止めること、受け流すことの違いを感じてみよう。 

そこに深刻さはある、ない? 

そこに恐れはある、ない? 

どっちでもいい、まるごと、そのまま感じてみよう。 

そして過ぎ去るものを過ぎ去るままにしておこう。 

ひらかれた受け身のこころ、これが、こころの禊だ。 

祓うとは、こころの目を、こころの耳を全開にすることなんだ。

空を感じてみよう、光が充ち満ちている、空、やすらぎにつつまれている。


 「人は流れる水には己を映さず,静止した水に映す(鏡とする)ものだ。そのように,自ら静けさを保つ者だけが,不動の心を他人にしみ通らせることができる」 


みんなが、ひととして、この現象のなかに受けた生は、歓喜の源泉だ。 

いま、この瞬間は、創造主の御心のなかだけにあるんだ。

これまで幾多と繰り返してきた変転のただなかには、恐れではなく、静かなる歓びがいまこの瞬間にある。 

聖霊は、すべてのなかから歓びを見出す、そして、すべての中から愛を見出す。 

誰もが、長寿や短命、栄枯盛衰、生老病死のならいを優雅にまるごと受け入れるならば、すべての変転きわまりない源泉である創造の真髄=潜象があなたに重なり合ってくるだろう。

そして、そんなあなたには、ほんとうのよろこびを何も通さず、そのまま感じるという奇跡が起こるだろう。 

恩寵。 

これまで見たこともない、訊いたこともない、それ。 

それは、働きも、形も無い。

それは誰かに伝えようとしても、誰も受け取ることができない。

それは体得されても、見ることはできない。

それは自らの裡に根拠をもち、自らに根差している。 

 答えは、外にないんだよ、内を覗いてごらん。 

答えは、外に探しても、見つからないでしょ?

足元を照らしてごらん。 

天地が創られる前から、みえない聖なるちからは、いつもあったし、いまもある。 

 奇跡は真理を証とする。奇跡は確信をもたらすが、それは奇跡が確信から生じているからである。確信なしでは、奇跡は魔術になりさがる。魔術には心が伴わず、したがって破壊的である。あるいは、心の非創造的な使用とも言える。

 」(T1:Ⅰ14) 

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日々あらたに、毎日が、祝祭。

これまでの人生と呼んでいたものはぜ~んぶ、夢物語。 夢から目覚めたら、そこには・・・。 そんなきづきが、日々深まっている奇蹟の毎日に贈ることばを綴っています。