いずれ誰もが、あきらめるどころか、すべてが手に入る、
いやもう入っていることにきづくことになるんだ。
すべてというのは、言葉(制限)で表現しきれるものではまったくなく、観たことも、聞いたこともない、驚嘆そのものなんだ。
誰もが、ときとともに、生きていく。
現在、過去、未来と、まっすぐ生きているように信じている。
でも、実際は、それは直線のように見ようとしているだけであって、直線でない。
まわりてめぐる。
自転、公転、螺旋運動、螺旋の端から端までを直線と観ているだけなんだ。
現在、過去、未来は、直線ではなく、螺旋運動だ。
未来から過去へ、時間は流れている。 過去から未来は、時間は流れている。 という、幻想。
「
消えろ、消えろ、つかの間の灯火(ともしび)!人生は歩きまわる影法師、あわれな役者だ、舞台の上でおおげさにみえをきっても、出場(でば)が終われば消えてしまう。白痴(はくち)のしゃべる物語だ、わめき立てる響きと怒りはすさまじいが、意味はなに一つありはしない。
」
『シェークスピア マクベス第五幕第5場』
古今東西の覚者は、ある時にはメロディに、ある時ははダンスに、ある時は演劇に、さまざまな方便とつかって、それを伝えようとしてきたんだ。
その宇宙は、夢なんだよ。
その宇宙を観ようとしているから宇宙はあるだけなんだ。
そもそも宇宙なんて、幻想なんだよ。
宇宙、という概念を信じて、観ようとしているだけ。
師走の夜の夢。
一番、面白いのは、ものごとはすべてあべこべだっていうこと。
深刻そうに見えるそれは、歓喜に満ち溢れ、その歓喜もまた、歓喜になかに消えていく。
消滅していくということ、
生起するということ、
信じるから生起するんだ。
信じないから消滅するんだよ。
信じる、信じない。ただ、それだけですべては「点滅」を繰り返すんだ。
無量光、点滅のおわり。
人の目が見たこともない、人の耳が聞いたこともない、それ。
時間という幻想を使って、赦すとき、点滅は、おわる。
それは、おわり、それがはじまる。
歓喜が歓喜のなかにひろがっていく。
「
毎日が奇跡に捧げられるべきである。時間の目的は、あなたが時間を建設的に使う方法を学べるようにすることである。したがって、それは教えるための仕組みの一つであり、目的達成の手段である。もはや学習の促進に役立たなくなったとき、時間はなくなる。
」(T1:Ⅰ15)
日々あらたに、毎日が、祝祭。
これまでの人生と呼んでいたものはぜ~んぶ、夢物語。 夢から目覚めたら、そこには・・・。 そんなきづきが、日々深まっている奇蹟の毎日に贈ることばを綴っています。
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