すべてをもっている人は、惜しみなく、与える。
それは、すでにもっていることを思い出すということなんだ。
与えるとは、外へ、外へから、内へ回帰することだ。
外へ、外へ、
欠乏を観ていると、欠乏が顕れて、
そこには奪い合いがある。
内へ、内へ、
満足を観ていると、満足を顕れて、そこには与えあいがある。
せめぎあい。
この世の中は、勝ちの奪い合いだ、
そして、奪ったものは、手放すことはなく、しがみつこうとする自我。
自我、それが幻想だったこときづくとき、あっさり自我という方便は、消える。
欠乏は、消え、
競争は、消え、
恐れが消える。
もう、びくびく、しない。
それは嘘だったのだ。
そして、神という真理が顕れる。
祝福。
すべてがすでに与えられている、という恩寵にきづく。
あきらめてはいけない、ただ手放すのだ。
何も、欠けてはいない。
あなたの強さは、わたしの強さ、わたしの強さは、あなたの強さ、互いにそれを映しあっている。
[
奇跡は与えることは受け取ることと同じく祝福されていることを実例によって教えるための仕組みである。奇跡は与える者の強さを増すことと、受ける者に強さを補給することを同時に行う。
」(T1:Ⅰ16)
日々あらたに、毎日が、祝祭。
これまでの人生と呼んでいたものはぜ~んぶ、夢物語。 夢から目覚めたら、そこには・・・。 そんなきづきが、日々深まっている奇蹟の毎日に贈ることばを綴っています。
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