人生を素晴らしくするのでなくて、これが人生だと思い込んでいる先入観から目覚めること、
これがほんとうの豊かな人生なんだ。
すべての思い込みは、手放そう。
赦しが新たな習慣となるとき、あなたが思っていた人生は、まったく違ったものになっていく、ほんとうの豊かさを経験していくことになるんだ。
2018年か3年間、この新たな習慣が定着する帰還になるだろう。
恐れがあるということは、あなたが肉体にまつわる想念を心のレベルまで引き下げてしまったことを意味する(T-2:Ⅵ1,6)。
恐れがあるとき、光には厚い雲がかっているようで、憂鬱だ。 生が無価値に思え、咎め、裁きをつづけていることが見えてくる。
幻想を真実と取り違え、幻想に一喜一憂する。
ここに混同があり(葛藤があり)、それを明確に見ることになることはあなたにとって役立つ(T-2:Ⅵ2,4)。
明確に見ること。
裁かず、咎めず、見ること。
価値判断なく、見ること。
静かに、穏やかに、冷静に、見ること。
深刻にならず、微笑みながら、見ること。
何か大きな混同に巻き込まれているときは、見ることを忘れているかもしれない。
外での大きな出来事は、自我が「大声で、内を見るな」と内を見ることから背けているということだ。内を見ることは、赦しの最初のステップになり、赦しがはじまることは、恐れを再生しつづける自我の崩壊を意味するからだ。
だから自我(という恐れの思考体系)はいう、「内を見るな、それは外で起こっている」と。
あなたが、恐れているとき、あなたはすでに誤った選択をしている。それゆえに、自分にその責任があると感じているのである。あなたは自分の行動ではなく、心を変えなければならない。そしえ、それはまさに意欲の問題である(T-2:Ⅵ3,2-3)。
恐れを取り消して、愛を選びたい。 このささやかな意欲とともに、 まずは、深呼吸して、呼吸を感じてみよう。 ここにあるのは、恐れだ、と実況中継してみよう。 そして、みえないちから、聖霊の臨在を感じてみよう。
そこには、誰もいない。
そしたら、見るに、還ろう。
裁かず、咎めず、見ること。
価値判断なく、見ること。
静かに、穏やかに、冷静に、見ること。
深刻にならず、微笑みながら、見ること。
見る人から、見るそのものに、還ろう。
これが恐れの訂正であり、
赦しの実践であり、贖罪なんだ。
罪を贖うことが贖罪ではなく、罪そのものが影法師だったとわかり消滅するのがほんとうの贖罪であり、目覚めなんだ。
恐れの訂正こそ、まさしくあなたの責任である(T-2:Ⅵ4)。
責任、ってなにか犠牲になることでなく、単に、反応する力のことだ。 無意識の思考に恐れという反応をしていたことを、それを取り消し、愛という反応に選びなおす、選択の力があることにきづくことだ。
間違った選択をしているようなので、正しい選択をしたい。
という、ささやかな意欲を示すことで、みえない力がそれを助ける。
選択の力を思い出す。
結果のレベルでの選択の力ではなく、原因のレベルでの選択の力だ。
結果に力はない、原因において、訂正されるとき、それは、あなたのみならず、いきとしいけるすべてのものの訂正がなされることになる。
それは、あなた個人に起こっていることでなく、あなたを含めたみえざる全体の意志に起こっていることの反応だったのだ。
あるお方は、それをペインボディと表現した。
人類が経験してきた恐れと苦痛の記憶の総称だ。
いきとしいけるものから恐れは過ぎ去り、愛がやってくる。
それがたとえ途轍もなく大きな存在にみえても、あなたにはとれを取り消すちからがある。
聖霊と、ともにあるということは、ひとりがひとつになることだ。
ひとりでは難しいことも、ひとつでは、難易そのものが消える。
まずは、ひとりが、何か憂鬱になってきたときは、ひとつから離れた反応である、恐れ。
これを恐れだと、まず知りなさい。 恐れは悪の欠如から生じる。 愛の欠如の唯一の治療法は完全なる愛だけである。 完全なる愛とはすなわち贖罪である(T-2:Ⅵ7,5-8)
だから明らかなことは、あなたが恐れているとき、贖罪を必要とする位置に自分を置いたということである(T-2:Ⅵ8,3)
贖罪は、犯した罪をなかったことにするのでなく、そもそもなかったことにきづく、ということだ。
赦しは、こころの目のレンズ磨きだ。
磨けば磨くほど、愛の光が放たれていく。
2018年から愛と赦しの定着の3年、愛と赦しは、ひとりからひとつになっていく。
日々あらたに、毎日が、祝祭。
これまでの人生と呼んでいたものはぜ~んぶ、夢物語。 夢から目覚めたら、そこには・・・。 そんなきづきが、日々深まっている奇蹟の毎日に贈ることばを綴っています。
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