さよなら、大好きな人。

ある時期、「さよなら、大好きな人♪」というフレーズが繰り返されていました。 

大好きな人=誰? 

自我が捉える大好きな人は、過去の記憶です。 

あたらしいあなたは、過去の記憶にありません。 

あたらしいあなたは過去のあなたとは葛藤だけがあります。 

過去のあなたは、いつもあなたを過去に引き戻そうとします。 

それは、こんな信念だったんです。


 「苦労する」ことや、「厳しい試練に耐える 」ことや、幸せになるためには犠牲が必要だという信念です。


そして、試練に耐えることが魂の成長だと信じこんで、いろんな難行苦行を受けてたちます。 

自力の時期です。 そして、自は苦行を乗り越えるたびに、満たされぬ満足のまま、さらなる苦行をこしらえて、自が肥大化していきます。 


もう、行くべきところも、すべきことも、なにもない。 


というのは、充ち満ちているきづきをいいます。 「吾唯知足(われ、ただ足るを知る)」 の吾が消える瞬間です。

 吾があると、いつもそこには欠乏意識が伴います。

そして、また最初は見えるなにかをもっともっとと求め、見えないなにかをもっともっとと求めることになります。 物欲が過ぎれば、ある時は賞賛を、ある時は、新たな役目を、もっと、もっと。 過渡期、いったりきたりが訪れます。 過去の自己イメージ、未知の自己イメージ。 そう、さよなら、大好きな人とは、このもっともっとという欠乏感への別れだったのです。  


どこからか聞こえきました。

 

「わたしはあなたがたにどんな目にも見えないもの、どんな耳にも聞こえないもの、どんな手にも触れられないもの、そして人の心に思い浮かばなかったものを与えよう」 


そのとき、もっともっとと食べることが止み、もっともっとと飲むことが止み、もっともっとと外に追い求めることが止みました。 

 そして、こころからの充足感がやってきました。 

 満たされている。 

 充たされている。  

「うちなるこころが満たされている者は、もっと多くを与えられ、うちなるこころが欠乏している者は、ほんのわずかなものでさえ奪われるだろう」 

不平不満は、エゴの叫びです。 

心満意足は、聖霊のささやきです。 

 心、充ち満ちて、人生を存分にこころから愉しむということ。  

エゴは、神様に、いつでも私たちが欲しい(欠乏)と思うものを与えてくれる特別な神様になってほしいと思います。神社で願い事、お寺で願い事は、エゴのあわわれです。叶うためには何々をしますという取引をします。それがあるときは苦行だったり、ある時は~を我慢するという犠牲だったりします。 

でも、聖霊は、私たちが欲しがるもの、単に必要だと描くものでなく(それはエゴの欠乏意識の現れだと見極めて)私たちが本当に必要としている(満足)を与えてくれます。聖霊は、あなたのことは何でもお見通しなのです。

 「赦して、生命を見出した者は幸いである」 

急がば回れ、

だからあなたは、ただ自我を観るだけでいいのです。 ただ、それだけで、お見通しの何かをやってきます。いや、それはすでにやってきているのです。

自我がこしらえようとするいろんな難行苦行物語を、ただみて、じっとして何もしない。

聖霊が魅せてくれるなにかを感じながら。 私たちの赦しのインナーワークを続けることは、エゴの死の思考体系に別れを告げることであり、磔と死を選択する自分たちの頑なな習慣を捨て去ったとき、私たちは、本物の選択は本当にたった一つであり、それこそ命であることに気付くのです。

 真実を錯覚へ、無限を時間へ、命を死へともたらしたその唯一の誤り、それだけが、あなたの間違った考えがしたことのすべてだったのです。

あなたの全世界はその間違った考えに基づいてきました。あなたが見るすべてはそれを反映し、あなたが今までに持ったすべての特別な関係は、その一部です。

 特別な神、特別な恋人、特別な両親、特別な上司・・・

特別な関係は、いつもそこには取引があります。 

そして、何かを差し出すから愛してほしい、いい子にしているから、なにかちょ~だいという条件づきの愛で、その約束が破られたら愛は憎しみに変わります。

特別な関係のゴールはいつも恐れです。

ばらはらに細分化された偶像をいくつでもつくっていくことで満たされるとエゴは勘違いしているのです。

 愛は、すでにここにある。 

 無条件の愛そのものが。

それにきづくことが奇跡なのです。

  

 奇跡とは奉仕である。それはあなたが他人に対して行える最大限の奉仕である。それはあなた自身を愛するようにあなたの隣人を愛する方法である。あなたは自分自身の真価とあなたの隣人の真価を同時に認識する。 

」(T1:Ⅰ18) 

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日々あらたに、毎日が、祝祭。

これまでの人生と呼んでいたものはぜ~んぶ、夢物語。 夢から目覚めたら、そこには・・・。 そんなきづきが、日々深まっている奇蹟の毎日に贈ることばを綴っています。