バナナの皮にまた足を滑らせたときは、いつでも思い出そう。

あなたは、いつでも恐れることはできる。 

恐れは、無数のバリエーションとなって、時にはあなたの頭の後悔、不安となって、時には、見たことへの条件反射となって、刺激、反応、刺激、反応を点滅しながら、恐れでいっぱいになる。 

ハナナの皮という恐れに足を滑らせたときには、いつでも思いだそう。  


本当にあらゆるものは大丈夫であり、すべては赦される。  


神は、罰を与えない、罰を与えるのは、罪と罰を信じる二元の神だ。

 ひとつの神は、罪を知らない。 そこには安らぎだけがある。 

 「わたしのもとへ来なさい。わたしのくびきは心地よく、わたしの支配は優しいから。そしてあなたがたは自らに安らぎを見出すだろう」

 そして、柔らかな聖霊のレッスンが赦しなのです。 

 赦しで、どんな恐れも取り消されます。  

間違いを正当化することなく、開き直ることもなく、ただ間違いと認めるだけ。 

頑固な自我は、さらに加害者と被害者を作り出し、間違いを認めされられた神を加害者に自我を被害者にしてまた二元の深刻劇に連れ戻そうとするかもしれないけど、

どんな物語もただ観る、それだけで、すべては過ぎ去って(赦されて)いきます。


 裁かす、咎めず、観るだけ。 

価値判断をせずに、観るだけ。 

静かに、穏やかに、冷静に、観るだけ。 

微笑んで、深刻にならず、観るだけ。 


ただ、それだけで、すべては赦されていきます。 

そして、大丈夫、全ては間にあうようになっている。 


奇跡は恐れからの自由を表象している。「贖う」とは「取り消す」という意味である。恐れを取り消すことが、奇跡のもつ贖罪としての価値に不可欠な部分である。

(T1:Ⅰ26) 


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日々あらたに、毎日が、祝祭。

これまでの人生と呼んでいたものはぜ~んぶ、夢物語。 夢から目覚めたら、そこには・・・。 そんなきづきが、日々深まっている奇蹟の毎日に贈ることばを綴っています。