「しっかりした人は頭では考えないんだよ、われわれはこころで考えるんだ」
ネイティブアメリカンの言葉。
過去、未来へ、考えて、頭が堂々巡りをはじめたら、 カムカヘってみよう。
この呼吸を感じる、
そして、そしてこの鼓動を感じる。
カムにカヘル。
こころで考えること。
カムカエルって愛に還ることなんだ。
考えることは、恐れに還ること、
だから、後悔、不安が付きまとう。
開き直って、それが考えることだと正当化する。
振り返り、反省するというあたりまえだと考えていることをまずは疑ってみよう。
それって、本当?
「しっかりした人は頭では考えない。われわれはこころで考える」
結果をあやつろうと、とやかく考えるのでなく、原因に還る。
こころで考えることは、まず、何もごまかさず、ひらきなおることも、正当化もなしに、まずは無垢に感じることだ。
そして、耳を澄ます。 咎めずに、裁かずに、価値判断なく、ただその想いを感じてみる。
求めない。
探さない。
ただ、源を、感じる。
ハートで考える、感じるってこと。
肚で考える、感じるってこと。
ハートも、腸も、いつも考えているんだね。
おなかが温かくなってくる、ハートがすかっとしてくる。 額が涼しくなってくる。
感じよう。
くつろいで。
そして、その衝動を、文字にしてみよう。
自分が書いているのでなく、書くに任せてみよう。
直観の智識。
もうすでに知っていることは、信じることは必要ない。
そうなることを知っていることは、そうなりたいではない。
信じることも、期待することもない。
だって、いずれそうなるから、何も心配する必要はない。
知ること、ただ知ることだ!
「これが起きる事を私は知っている」
「自分が神であるのを私は知っている」
「自分が幸せなことを私は知っている」
「自分が在る事を私は知っている」
知ることは、考えることを放棄してときに、降参したときに、来る直観だ。
見えていることがわかるのでなく、まだ表れていないことを知っている、
見えていることをこねくりまわすことが思考だと、自我の思考体系が決めつける。
自我の思考体系は、欠乏意識だ。
だから、ささいな思考をこしらえては、その思考に葛藤するように、そう、こしらつづけていた。
偽考のおわり。
概念化する、細分化する、比較選択する。
この「思考」は、限りある思考だ。
概念を手放す、細分化を手放す、比較選択を、手放す。
この「思考」は、限りを解いていく、思考だ。
無条件の思考。 どちらも大切な思考だ。
でも、見えていることだけを扱ってきたから、見えなくなってきたんだ。
だから、見えないことも扱って、見えるようにしよう。
ほとんどの頭脳は、これを経験してことがない。
思い切って、常識という固定観念から自由になってみよう。
あるがままをあるがままに、感じてみよう。
「
奇跡が恐れを連想させる唯一の理由は、闇による隠蔽が可能だという信念があるからである。肉眼で見えないものは存在しないとあなたは信じている。これが霊的視覚の否定につながる。
」(T1:Ⅰ22)
日々あらたに、毎日が、祝祭。
これまでの人生と呼んでいたものはぜ~んぶ、夢物語。 夢から目覚めたら、そこには・・・。 そんなきづきが、日々深まっている奇蹟の毎日に贈ることばを綴っています。
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