無明の闇は、無明自身を見ることもできず知りもしないものを破壊することはできない。
それはわたしを十字架につけてもわたしを破壊することはできなかった。
魂も御霊も破壊することはできなかった。
無明自身の知らぬ光を破壊することはできなかった。
その故にこそ、わたしはいま尚、神の生けるキリストとして、父なる神のひとつ己として、生きているのである。
(真我が目覚めるとき、)あなたたちは今や自分がこの世に属する者ではなく、御霊によって生まれて、キリストがあなたの中にましますことを知った。しかし世はなおこの真理には無明である。(心身の神癒Ⅳ24-25)
愛と赦しの鏡としての世界。
そこには、ねば、べき、はない。
ただ、ありのままにあるがままにこの夢――この世――から目覚めているだけで、すべてを持っている。
この世と見比べてはならない。
ならない、というより、見比べても意味はない。
この世じだい意味を持たないからだ。
だから、見比べて、考える(反応する)という、無明から目覚めなさい。
幾千年ものあいだ、見比べては、滅し、見比べては、没した。
遥かなる記憶から目覚めなさい。
約束の地とは、
新しい地とは、
愛と赦しが写る(遷る)地だ。
アマ(根源伸)のイブキを受けること。
アマウツシ、 ゴッドブレス、
瞬間に生かされる聖なる地だ。
聖なる地は恐れの鎖につながれた偽の理想郷ではない。
わかるがわかちあえる、世界だ。
この宇宙の縁側での聖なる日向ぼっこ。
ありがとう、のわかちあい。
おかげさま、のわかちあい。
この宇宙の縁側で、至福が至福になっていく。
食べていても至福、
寝ていても至福、
遊んでいても、なにをしていても至福。
過去の概念を観て反応をすることから解放される、
ただそれだけで、すべてが至福で満たされていく。
あくせくするなら、あほになれ。
同じあほなら、踊ってしまおう。
踊って、至福。
もうすぐ、春がきますね♪
「
奇跡は、病める者を癒し、死者をよみがえらせることをあなたに可能にする。なぜなら、あなた自身が病気と死を作り出したのであり、それゆえに、どちらもあなたが廃することができるからである。あなたが一つの奇跡である。創造主と同じように創造することができるという奇跡である。その他のすべてはあなた自身の悪夢であり、存在しない。光による被造物たちだけが実在する。
」(T1:Ⅰ24)
日々あらたに、毎日が、祝祭。
これまでの人生と呼んでいたものはぜ~んぶ、夢物語。 夢から目覚めたら、そこには・・・。 そんなきづきが、日々深まっている奇蹟の毎日に贈ることばを綴っています。
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